徳島県高等学校演劇協議会
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いよいよ2年越しの文化の森フェスが始まります。
感染症対策で、制限のある中での発表となりますので、
ご覧になった方は、こちらにご感想を投稿していただけると、
今後の励みになります。
よろしくお願いいたします。
ルーズ・スケッチと美しい残照 ~2021年文化の森演劇フェスティバル2日目劇評~
吉田 験
〔基本データ〕
2021年6月13日(日)上演2作品
【上演1】海部高校『「信じられているから走るのだ。」byメロス』(作 生垣ちひろ)
【上演2】徳島市立高校『七人の部長』(作 越智優)
今年(2021年)の4月末から5月頭にかけて、緊急事態宣言発令下の東京で、高校演劇出身の一人の若者が、科学的根拠を十分に有しない劇場閉鎖への抗議の意思を示すために、とある公園にテントを張り、台本の読み合わせ=デモを数日にわたって行った。非常にマイナーで、おそらく演劇人にとってもほとんど知られていない取り組みだが、私にとっては今年上半期の演劇界で最も重要な「上演」だった。若者はその意図をこう記す。「無観客配信をデフォルトにするなど馬鹿げている、演劇というのは人が集まることの効用を信じる芸術だ」と。
このCOVID-19パンデミック下で苦闘する演劇人にとっては、思わず涙ぐみそうになる名文である。「そうだ!」と喝采を送りたくなる衝動の一方で、しかし、「待てよ」とつぶやく自分がいる。この十数年、曲がりなりにも演劇に関わって来たが、私はこれまで本当に「人が集まることの効用」を信じて来たのか?そう自問して素直に肯けない自分がいる。「演者と観衆とが同じ時間と空間を共有する」という、演劇の儀礼性・共同性は、私にとっていわば「身体」のようなものであって、信じるも何も、どうしようもなく付き合う他ない性質のものだ。
皮肉を言えば、人間そのもののDX(デジタルトランスフォーメーション)が進み、精神のみならず身体までもが全て「データ」に移行・還元されれば、何の問題も無いのだ。だが、そうも行かない。人間には身体がある、どうしたって。スピルバーグも映画『レディプレイヤー1』のクライマックスで主人公にこう言わせている。「ゲームの中じゃ、うまい飯は食えねえからな!」
そうなのだ。演劇とは、この事実に異様なまでに忠実な表現形式である。鏡を見て、自分の容姿に違和感や劣等感を抱いたことのない者は稀だろう。自己愛の幻想が身体の現実によって突き破られるのだ。端的にかっこ悪くてみっともない、こんなはずじゃなかった自分。おそらく、この「みっともなさ」を最後まで手放すことのない点で、シェイクスピアの言うように、演劇は「世界を映す鏡」たりえているのだろう。
もちろん、それを隠すメイク道具はたくさんある。素顔への幻滅も、メイクが進み、お出かけの高揚感が取って代われば、一瞬で消える。実際、演劇も劇場もそのような祝祭的気分に満ちている。あるいは、そのような「お祭り」こそが演劇の本体だと思っている人も多い。演劇の魅力を「非日常感」と答える人が多いのも、そういうことだろう。そのこと自体は否定しない。そもそも人が鏡を見るのは、外に出かけたり、人に会ったりするためで、そのことに伴う高揚感が、演劇の場合、先ほどの「非日常感」に当たるのだろう。確かに、演劇に付随する様々な現象、例えば、社交の場としての劇場空間、贔屓の役者(今風に言えば、「推し」)への陶酔や、劇中の歌舞への熱狂などは、まぎれもなく祝祭と言っていいだろう。もっと言えば、それは演劇を構成する重要な要素であり、かつ、人が劇場に足を運ぶ主要な理由であり、さらに、ある種の人々にとっては、生きがいや生きる理由でさえある(某芥川賞受賞作によれば、何せ「押しは命に関わる」らしい)。
しかし、あえて断言するが、演劇の本質は祝祭ではない。演劇はあくまで鏡なのだ。今日の演劇の基本原則である「リアリズム」とは、観衆が自分たちの「素顔」だと思っているものが実は素顔でも何でもなく、ただの「厚化粧」に過ぎないことを示す営みである、まさしく鏡のように。
この観点から言えば、例えば今回の文化の森演劇フェスティバルでも、そのコロナ対策において、今の社会のあり方が如実に映し出されている。すなわち、劇場内では、マスクや検温、アルコール手指消毒といった基本的な感染症対策に加えて、気楽なおしゃべりは制限され、観衆と演者、あるいは上演団体同士も厳密にゾーニングが実施されている。それはこの状況下では当然の運営方針であるが、その必然として、演劇の祝祭性は縮減されることになる。劇場で偶然に懐かしい人と再会して、一時、思い出話に花を咲かせる。あるいは、他校の上演を観て、刺激を受け、交流する。そんなことさえままならない現状に、寂しい思いを抱いた人も多いだろう。
だが、それは当然ながら、演劇フェスの運営方法という、消極的な意味での、社会の「反映」の仕方であって、肝心なのは、上演作品が、積極的な意味での「鏡」たり得たかどうかだ。もっと言えば、作品の成否は、社会の価値観の無自覚で無反省の「反映」ではなく、批評的な「表現」たり得たかどうかにかかっている。
前置きが長くなったが、以下に、個々の作品に触れる。
【上演1】海部は、DMV(鉄道と道路の両方を走る車両)の導入を巡り、地元の高校の部活が様々な協力をする中で、演劇部の5人がどのような協力をするかについてあれこれ話し合うという内容で、ドラマの結構はなく、日常のルーズなスケッチといった趣の作品である。誤解のないように付言するが、ここでの「ルーズ」とは決して悪い意味ではない。役者の肩の力が抜けている、いわゆる「脱力」は、高校生の現実生活を描く際の必須条件の一つである。個々の演技について言えば、冒頭、舞台中央やや上手寄りに置かれた2つの抽象的な黒ブロックで書き物をしていた女子生徒がおもむろに立ち上がり、鉄道の真似をする導入は印象的であり、その後、男子生徒に見つかったときの気まずさや、さらに、DMVを愛する男子3人組の登場シーンも大変効果的で好感の持てるものだった。このような脱力系の作品をより効果的にするためには、要所要所(特に笑わせ所)できちんと「タメ」を意識する、また、「ここは力の入れ所」という部分を作って、流れにメリハリを作る、といったことが考えられる。作品のテーマに関わるところで、台詞を忘れたのかと思われる部分があったのが惜しまれる。
前述の観点から言えば、2021年の「今」を描いた作品なのだから、コロナに言及してもよかったのではないかとも感じた。もちろん、そうすると途端に事情は複雑になる。「役者がマスクを付けていないのはなぜか」「そんなシリアスな話題を持ち込むと楽しい雰囲気が壊れてしまうのでは」等々。あるいは、仮に役者がマスクを付けて出演する際には、「息苦しい」「声が届かない」といった様々な困難が発生することも考え得る。
こういった点から、コロナへの言及は避けられたものと思われるが、もし仮にコロナへの言及がなされ、役者がマスクを付けていたとすれば、この作品で描かれた現実的な背景、つまり、地元の鉄道が運行を止め、DMVに代わると言いながら、その実現はまだ先が見えないという社会的な問題に加え、作品内の演劇部でも、新入生が入らず世代交代が上手く進んでいないという部内の事情に、さらにコロナによる沈鬱という時代的な雰囲気までが幾重にも重なって感じられ、より陰影に富む舞台になったはずであり、それが、まがうことなき我々の社会の「素顔」であるはずだ。
そして、ここからが最も重要なのだが、それでもなお、作り手が観衆と「今」を共有する意志を示し、その上で、上記の困難を乗り越える工夫や発想、例えば、マスクは役者が一人の時や役者同士が距離をとった際には外すといった工夫や、DMVの段ボール同士はポールか何かで物理的距離が決められていて近づけないといったコメディ的演出などで、「今」の不便さや息苦しさをはねのけ、「信じられているから走るのだ」ということを、部員たちが他ならぬその身体で示すことができていれば、笑いに加えて、心の奥底からの感動と共感を、私達は感じることができたかもしれない。今日、ここに集ってよかった、と。その時、私達は自分の「素顔」を、鼻や頬にマスクの後が付いたその顔を、今よりも少しだけ好きになれたのかもしれない。
とはいえ、以上は私の個人的な希望が多分に含まれた望蜀の言であり、作り手が意図した表現は、多少の瑕疵はありつつも十分に達成できていたのではないかと思われる。
【上演2】徳島市立の『七人の部長』は2001年全国大会最優秀作であり、これまで全国至る所で数限りなく再演されて来た高校演劇の名作である。だが、観る側にはあれほど平明な魅力に満ちた作品が、一旦作る側に回ると途端に、極めて繊細な注意や技巧が要求される高難度の戯曲であることに気づかされるのは、正に名作と言う他ない。私も数多くの上演を観て来たが、その要求レベルを十分に満たす舞台に出会えることはそうそう無い。今回の徳島市立はその数少ない一つであり、あるいは、作り手にとっては十分に満足の行く出来ではなかったかもしれないが、それでも今日、あのレベルの上演が実現できること自体が並々ならぬことであると言わねばならない。
とりわけ今回は、20年という時間の経過が、作品を現在から切り離し、いよいよ過去のものにしたという感触を強く抱かせ、感慨深いものがあった。
以下はおそらく私個人の感慨を強く含んだ解釈であるが、舞台冒頭で「平成十三年度 私立ヤツシマ女子高 部活動予算会議」と黒板に墨書される『七人の部長』が、今日の眼からは「平成」という過ぎ去った時代の象徴であるかのように感じられたのである。初演時点で既に十分に戦後民主主義は形骸化し、生徒会は学校の「御用機関」と化し、誰もそれらをまともに受け止めてはいなかった。その時点で既に十分にパロディ化し戯画化された形であったとはいえ、それでも、劇中の七人の部長達は「会議」を行い、学校の体制への異議申し立てをしようと試み、部活動に自らの青春を思う存分、託すことができた。
2021年の現在、劇中に描かれる、口角泡を飛ばしながら侃々諤々の議論を行う高校生の姿は、現実には不可能であり、完全な「フィクション」になってしまっている。部活動も、この演劇フェスを含め、「感染状況」という如何ともしがたい事実によって、一瞬で中止や停止を余儀なくされるものとなってしまっている。
この事実が、もはや完全に過去のものとなってしまった「平成」という時代への、「当時も様々な問題があったとはいえ、今思えばなんと恵まれた時代であったのか」という感慨へと、私の心を自然に導いて行った。そして、劇の最後、雨あがりに画然と降り注ぐ夕日が「日の名残り」として、過ぎ去る時代の美しい残照のように思われたのである。
もちろん、それ自体、一個の感傷であることは自覚している。そもそも元号に基づく思考自体が、どうしようもなくナショナリスティックかつドメスティックで、普遍性を有しないものであることも。
だが、この感慨は私個人にとどまるものではなく、今回の上演に接した観衆の多くの胸中に、大なり小なり含まれているのではなかろうか。もし今回の上演で、初演と同じく「平成十三年度・・・」と黒板に書かれていれば、私はきっと堪えきれず、滂沱の涙を流していたことだろう。
とはいえ、徳島市立はその選択をしなかった。黒板には「二〇二一年度・・・」と記されていた。そしてそれは作り手の自覚的な選択であろう。
昨年度の徳島市立の全国大会(高知大会)出場作『水深ゼロメートルから』(感染症対策によって生の上演は中止となり、「Web総文」という形で映像配信され、徳島市立はあえて舞台の映画化という形でこれに応答したが)でも、2019年に作られた作品をあえてそのままに、「コロナのない2020年」というフィクションの形で提示した。今回もそのような「コロナのない2021年」という形で作品を提示したのかもしれないが、そこに込められたものは、そのような消極的な意味合いだけではないように思われる。そもそも、単純な整合性の問題で言えば、初演と同じ「平成十三年度」で行く方がよほど容易であり、それに気づかぬ作り手ではない。だからこそ、この変更には、そのような消極性にとどまらない、今後の創作に向けた積極的な意味合いも含まれているのではないかと思われる。
すなわち、それは、『七人の部長』に代表されるような、高校演劇の最良の意味での叙情性を、2021年のコロナ禍における自分達の現実を描いたものとして、いかに実現するかという問題意識であり、徳島市立は今後の創作において、それを志向し実現していくものと思われる。
私自身はコロナ以前から、そのような叙情性には、演劇の「鏡」としての性質を曇らせてしまうという意味で批判的であるが、そのような立場の者にとっても、無視できない重みを感じさせる上演であった。個々の些細な指摘は野暮というものだろう。
ルーズ・スケッチと美しい残照 ~2021年文化の森演劇フェスティバル2日目劇評~
吉田 験
〔基本データ〕
2021年6月13日(日)上演2作品
【上演1】海部高校『「信じられているから走るのだ。」byメロス』(作 生垣ちひろ)
【上演2】徳島市立高校『七人の部長』(作 越智優)
今年(2021年)の4月末から5月頭にかけて、緊急事態宣言発令下の東京で、高校演劇出身の一人の若者が、科学的根拠を十分に有しない劇場閉鎖への抗議の意思を示すために、とある公園にテントを張り、台本の読み合わせ=デモを数日にわたって行った。非常にマイナーで、おそらく演劇人にとってもほとんど知られていない取り組みだが、私にとっては今年上半期の演劇界で最も重要な「上演」だった。若者はその意図をこう記す。「無観客配信をデフォルトにするなど馬鹿げている、演劇というのは人が集まることの効用を信じる芸術だ」と。
このCOVID-19パンデミック下で苦闘する演劇人にとっては、思わず涙ぐみそうになる名文である。「そうだ!」と喝采を送りたくなる衝動の一方で、しかし、「待てよ」とつぶやく自分がいる。この十数年、曲がりなりにも演劇に関わって来たが、私はこれまで本当に「人が集まることの効用」を信じて来たのか?そう自問して素直に肯けない自分がいる。「演者と観衆とが同じ時間と空間を共有する」という、演劇の儀礼性・共同性は、私にとっていわば「身体」のようなものであって、信じるも何も、どうしようもなく付き合う他ない性質のものだ。
皮肉を言えば、人間そのもののDX(デジタルトランスフォーメーション)が進み、精神のみならず身体までもが全て「データ」に移行・還元されれば、何の問題も無いのだ。だが、そうも行かない。人間には身体がある、どうしたって。スピルバーグも映画『レディプレイヤー1』のクライマックスで主人公にこう言わせている。「ゲームの中じゃ、うまい飯は食えねえからな!」
そうなのだ。演劇とは、この事実に異様なまでに忠実な表現形式である。鏡を見て、自分の容姿に違和感や劣等感を抱いたことのない者は稀だろう。自己愛の幻想が身体の現実によって突き破られるのだ。端的にかっこ悪くてみっともない、こんなはずじゃなかった自分。おそらく、この「みっともなさ」を最後まで手放すことのない点で、シェイクスピアの言うように、演劇は「世界を映す鏡」たりえているのだろう。
もちろん、それを隠すメイク道具はたくさんある。素顔への幻滅も、メイクが進み、お出かけの高揚感が取って代われば、一瞬で消える。実際、演劇も劇場もそのような祝祭的気分に満ちている。あるいは、そのような「お祭り」こそが演劇の本体だと思っている人も多い。演劇の魅力を「非日常感」と答える人が多いのも、そういうことだろう。そのこと自体は否定しない。そもそも人が鏡を見るのは、外に出かけたり、人に会ったりするためで、そのことに伴う高揚感が、演劇の場合、先ほどの「非日常感」に当たるのだろう。確かに、演劇に付随する様々な現象、例えば、社交の場としての劇場空間、贔屓の役者(今風に言えば、「推し」)への陶酔や、劇中の歌舞への熱狂などは、まぎれもなく祝祭と言っていいだろう。もっと言えば、それは演劇を構成する重要な要素であり、かつ、人が劇場に足を運ぶ主要な理由であり、さらに、ある種の人々にとっては、生きがいや生きる理由でさえある(某芥川賞受賞作によれば、何せ「押しは命に関わる」らしい)。
しかし、あえて断言するが、演劇の本質は祝祭ではない。演劇はあくまで鏡なのだ。今日の演劇の基本原則である「リアリズム」とは、観衆が自分たちの「素顔」だと思っているものが実は素顔でも何でもなく、ただの「厚化粧」に過ぎないことを示す営みである、まさしく鏡のように。
この観点から言えば、例えば今回の文化の森演劇フェスティバルでも、そのコロナ対策において、今の社会のあり方が如実に映し出されている。すなわち、劇場内では、マスクや検温、アルコール手指消毒といった基本的な感染症対策に加えて、気楽なおしゃべりは制限され、観衆と演者、あるいは上演団体同士も厳密にゾーニングが実施されている。それはこの状況下では当然の運営方針であるが、その必然として、演劇の祝祭性は縮減されることになる。劇場で偶然に懐かしい人と再会して、一時、思い出話に花を咲かせる。あるいは、他校の上演を観て、刺激を受け、交流する。そんなことさえままならない現状に、寂しい思いを抱いた人も多いだろう。
だが、それは当然ながら、演劇フェスの運営方法という、消極的な意味での、社会の「反映」の仕方であって、肝心なのは、上演作品が、積極的な意味での「鏡」たり得たかどうかだ。もっと言えば、作品の成否は、社会の価値観の無自覚で無反省の「反映」ではなく、批評的な「表現」たり得たかどうかにかかっている。
前置きが長くなったが、以下に、個々の作品に触れる。
【上演1】海部は、DMV(鉄道と道路の両方を走る車両)の導入を巡り、地元の高校の部活が様々な協力をする中で、演劇部の5人がどのような協力をするかについてあれこれ話し合うという内容で、ドラマの結構はなく、日常のルーズなスケッチといった趣の作品である。誤解のないように付言するが、ここでの「ルーズ」とは決して悪い意味ではない。役者の肩の力が抜けている、いわゆる「脱力」は、高校生の現実生活を描く際の必須条件の一つである。個々の演技について言えば、冒頭、舞台中央やや上手寄りに置かれた2つの抽象的な黒ブロックで書き物をしていた女子生徒がおもむろに立ち上がり、鉄道の真似をする導入は印象的であり、その後、男子生徒に見つかったときの気まずさや、さらに、DMVを愛する男子3人組の登場シーンも大変効果的で好感の持てるものだった。このような脱力系の作品をより効果的にするためには、要所要所(特に笑わせ所)できちんと「タメ」を意識する、また、「ここは力の入れ所」という部分を作って、流れにメリハリを作る、といったことが考えられる。作品のテーマに関わるところで、台詞を忘れたのかと思われる部分があったのが惜しまれる。
前述の観点から言えば、2021年の「今」を描いた作品なのだから、コロナに言及してもよかったのではないかとも感じた。もちろん、そうすると途端に事情は複雑になる。「役者がマスクを付けていないのはなぜか」「そんなシリアスな話題を持ち込むと楽しい雰囲気が壊れてしまうのでは」等々。あるいは、仮に役者がマスクを付けて出演する際には、「息苦しい」「声が届かない」といった様々な困難が発生することも考え得る。
こういった点から、コロナへの言及は避けられたものと思われるが、もし仮にコロナへの言及がなされ、役者がマスクを付けていたとすれば、この作品で描かれた現実的な背景、つまり、地元の鉄道が運行を止め、DMVに代わると言いながら、その実現はまだ先が見えないという社会的な問題に加え、作品内の演劇部でも、新入生が入らず世代交代が上手く進んでいないという部内の事情に、さらにコロナによる沈鬱という時代的な雰囲気までが幾重にも重なって感じられ、より陰影に富む舞台になったはずであり、それが、まがうことなき我々の社会の「素顔」であるはずだ。
そして、ここからが最も重要なのだが、それでもなお、作り手が観衆と「今」を共有する意志を示し、その上で、上記の困難を乗り越える工夫や発想、例えば、マスクは役者が一人の時や役者同士が距離をとった際には外すといった工夫や、DMVの段ボール同士はポールか何かで物理的距離が決められていて近づけないといったコメディ的演出などで、「今」の不便さや息苦しさをはねのけ、「信じられているから走るのだ」ということを、部員たちが他ならぬその身体で示すことができていれば、笑いに加えて、心の奥底からの感動と共感を、私達は感じることができたかもしれない。今日、ここに集ってよかった、と。その時、私達は自分の「素顔」を、鼻や頬にマスクの後が付いたその顔を、今よりも少しだけ好きになれたのかもしれない。
とはいえ、以上は私の個人的な希望が多分に含まれた望蜀の言であり、作り手が意図した表現は、多少の瑕疵はありつつも十分に達成できていたのではないかと思われる。
【上演2】徳島市立の『七人の部長』は2001年全国大会最優秀作であり、これまで全国至る所で数限りなく再演されて来た高校演劇の名作である。だが、観る側にはあれほど平明な魅力に満ちた作品が、一旦作る側に回ると途端に、極めて繊細な注意や技巧が要求される高難度の戯曲であることに気づかされるのは、正に名作と言う他ない。私も数多くの上演を観て来たが、その要求レベルを十分に満たす舞台に出会えることはそうそう無い。今回の徳島市立はその数少ない一つであり、あるいは、作り手にとっては十分に満足の行く出来ではなかったかもしれないが、それでも今日、あのレベルの上演が実現できること自体が並々ならぬことであると言わねばならない。
とりわけ今回は、20年という時間の経過が、作品を現在から切り離し、いよいよ過去のものにしたという感触を強く抱かせ、感慨深いものがあった。
以下はおそらく私個人の感慨を強く含んだ解釈であるが、舞台冒頭で「平成十三年度 私立ヤツシマ女子高 部活動予算会議」と黒板に墨書される『七人の部長』が、今日の眼からは「平成」という過ぎ去った時代の象徴であるかのように感じられたのである。初演時点で既に十分に戦後民主主義は形骸化し、生徒会は学校の「御用機関」と化し、誰もそれらをまともに受け止めてはいなかった。その時点で既に十分にパロディ化し戯画化された形であったとはいえ、それでも、劇中の七人の部長達は「会議」を行い、学校の体制への異議申し立てをしようと試み、部活動に自らの青春を思う存分、託すことができた。
2021年の現在、劇中に描かれる、口角泡を飛ばしながら侃々諤々の議論を行う高校生の姿は、現実には不可能であり、完全な「フィクション」になってしまっている。部活動も、この演劇フェスを含め、「感染状況」という如何ともしがたい事実によって、一瞬で中止や停止を余儀なくされるものとなってしまっている。
この事実が、もはや完全に過去のものとなってしまった「平成」という時代への、「当時も様々な問題があったとはいえ、今思えばなんと恵まれた時代であったのか」という感慨へと、私の心を自然に導いて行った。そして、劇の最後、雨あがりに画然と降り注ぐ夕日が「日の名残り」として、過ぎ去る時代の美しい残照のように思われたのである。
もちろん、それ自体、一個の感傷であることは自覚している。そもそも元号に基づく思考自体が、どうしようもなくナショナリスティックかつドメスティックで、普遍性を有しないものであることも。
だが、この感慨は私個人にとどまるものではなく、今回の上演に接した観衆の多くの胸中に、大なり小なり含まれているのではなかろうか。もし今回の上演で、初演と同じく「平成十三年度・・・」と黒板に書かれていれば、私はきっと堪えきれず、滂沱の涙を流していたことだろう。
とはいえ、徳島市立はその選択をしなかった。黒板には「二〇二一年度・・・」と記されていた。そしてそれは作り手の自覚的な選択であろう。
昨年度の徳島市立の全国大会(高知大会)出場作『水深ゼロメートルから』(感染症対策によって生の上演は中止となり、「Web総文」という形で映像配信され、徳島市立はあえて舞台の映画化という形でこれに応答したが)でも、2019年に作られた作品をあえてそのままに、「コロナのない2020年」というフィクションの形で提示した。今回もそのような「コロナのない2021年」という形で作品を提示したのかもしれないが、そこに込められたものは、そのような消極的な意味合いだけではないように思われる。そもそも、単純な整合性の問題で言えば、初演と同じ「平成十三年度」で行く方がよほど容易であり、それに気づかぬ作り手ではない。だからこそ、この変更には、そのような消極性にとどまらない、今後の創作に向けた積極的な意味合いも含まれているのではないかと思われる。
すなわち、それは、『七人の部長』に代表されるような、高校演劇の最良の意味での叙情性を、2021年のコロナ禍における自分達の現実を描いたものとして、いかに実現するかという問題意識であり、徳島市立は今後の創作において、それを志向し実現していくものと思われる。
私自身はコロナ以前から、そのような叙情性には、演劇の「鏡」としての性質を曇らせてしまうという意味で批判的であるが、そのような立場の者にとっても、無視できない重みを感じさせる上演であった。個々の些細な指摘は野暮というものだろう。