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各顧問からの講評文です。今後の活動の参考にしてください。
明日を考察せよ!-2022文化の森演劇フェスティバル初日劇評-
吉田験
〔基本データ〕
2022年6月11日(土)
【上演1】海部高校「海と空と古墳と私」
【上演2】鳴門高校「エチュード」
【上演3】城北高校「グレイ」
【上演4】城東高校「마중(マジュン)」
今から11年前、大江健三郎はすでに現代社会について「この狂気(制禦できないかも知れない幾つもの大暴力が動き始めている社会)」と述べていた(内橋克人編『大震災のなかで』岩波新書)。当時の私は「狂気」という言葉をあまりにも強い表現だと感じていたけれど、それは結局のところ能天気で何も考えていなかったからに過ぎず、その後の11年の歩みのなかで、個人的な生活でも、また社会事象の上においても、何度も血反吐を吐き、煮え湯を飲まされるような耐え難い苦痛を経た後に、大江の言葉の正確無比さを、馬鹿な私もようやく実感するに至った。
では、この狂気に我々はいかに向き合うべきか。私はぜひ石川啄木の「時代閉塞の現状」(1910年)を読んで欲しいと思っている。100年以上前の文章だろうが、そんなことは一切関係ない。むしろ我々の表現が石川の文章よりも「新しい」保証はどこにもない。「時代閉塞の現状」が切り拓いた地平のはるか後方で、我々は単に後の時代に生まれたという一事をもって自分たちのことを「新しい」と錯覚しているだけかもしれない。
例えば、石川はこう言っている。「彼の早くから我々の間に竄入している哲学的虚無主義の如きも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものである事は言うまでもない。それは一見彼の強権を敵としているようであるけれども、そうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼等は実に一切の人間の活動を白眼をもって見るが如く、強権の存在に対してもまた全く没交渉なのである。――それだけ絶望的なのである。」
今日上演された4作の中にも、現代における「時代閉塞」を描いた作品が複数あった。そして、それは何も上記の4作や徳島の高校演劇に限った話ではなく、ここ数年の全国大会において「閉塞感」としてしばしば指摘される傾向と共通しているとさえ言える。だが、石川のこの今なお完全に妥当する無慈悲なほど正確な指摘に対して「違う」と言える作品が、はたして一体いくつあるだろうか。
私の言いたいのは決して「高校生らしく明るく元気に前を向いて」などと言うことではない。暗く、重苦しく、救いのないものにどうしようもなく惹かれるのならば、その感覚を決して手放してはいけない。それこそが表現の出発点である。
だが、同時に、それは表現の出発点でしかない。そこにとどまることは表現者の仕事ではなく、問題はその先にある。そもそも素朴にこう思わないか?――何人もの若者が口をそろえて「死にたい」と言う社会が、はたしてまともか?「その原因は若者の弱さにある」だと?むしろ逆ではないのか?社会の方が狂っているからではないか?――
この時初めて、我々の表現は、石川啄木の言う「批評」=「明日の考察」の強度をはらむ。かりそめの希望でも、たんにそれを裏返しただけの虚妄の絶望でもない、現実に立ち向かう強度や批評を有した作品や作り手の出現を、たとえどんなに困難な状況にあっても、私は待ち望んでいる。
無論それは、社会の支配的な価値観を無自覚に内面化している自分自身のあり方に対して最も峻厳な疑問や批判をぶつけることを通して、自己も社会も再び生かそうとする道に他ならない。その点で、ここで言われる「批評」とは何よりもまず「自己批評」なのであって、それは「自分は悪くない。悪いのは今の世の中の方だ!」というような戯言への正確な対偶命題としてある。
たとえ高校生でも、高校演劇でも、上記のような条件は変わらない。鳴門高校の上演でも触れられていたように、ショパンのエチュードは練習曲でありながら一個の芸術作品である。同様に、高校演劇も、年若い高校生による習作の側面を有しながらも、同時にそれは純然たる一個の演劇表現である。
【上演1】海部高校の近隣にある大里古墳をモデルとした「こざと(小里?古里?)古墳」が舞台。そこにツアーガイドと7人の観光客。ツアーガイドは明らかに高校生の制服を着ており、観ているとそこに違和を感じるのだが、それが後に、「高校生観光ボランティア」という(おそらくは架空の)役職であることが明かされ、違和や疑問が解消されるという仕組みになっている。これは、その後の、古墳から現れた古代人の衣装を着た女性が卑弥呼ではないかという、ファンタジー的設定に観客を導いておきながら、実はツアーガイドの同級生で古代人の格好をしてダンスも披露する「ヒミちゃん」であると明かされるのと同じ展開である。このように観客を意図的にミスリードしておいて後から種明かしをするのがこの劇の基本的な構成であり、その意外性の点で、観客の関心をよく喚起し得ていた。ダンスシーンも本格的で、客席からは拍手も起きていた。観光客はDMVに乗り、「ヒミちゃん」と写真を撮った後、立ち去る。「ヒミちゃん」のことを古墳から抜け出た卑弥呼と勘違いし、自分たちの郷里の古墳が実は卑弥呼の墓かもしれないと一時期待した後輩のツアーガイドの男性に対して、先輩の女性ツアーガイドは「海と山と古墳があれば十分」ということを言う。大きな事件は起こらない、日常の点描を主とする作品であり、「海と山と古墳があれば十分」という言葉も、何気なく、かつ、さりげなく発せられる言葉でありながら、観客の胸にじんわりと沁みてくる良質の科白であり、この劇の主題をよく伝えていた。「邪馬台国」や「卑弥呼」といった、地域の観光の起爆剤になると同時にナショナルな関心に吸収されがちな話題に対して慎重に距離を取り、生まれ育った地域で物静かに地道に暮らす高校生像に胸打たれた観衆も多いであろう。昨年度より脚本の構成も役者の練度も良く、充実した舞台であった。
強いて技術的な面での改善点を述べれば、演技の強弱・メリハリをより一層意識し、場面の切り替わりにおける照明や音響にもう一工夫あれば、なお良いだろう。例えば、ダンスシーンへの移行は、カット・チェンジではなくフェード・チェンジにし、そこにダンスを丁寧にシンクロさせれば、それだけで舞台の完成度は格段に向上する。色付けはホリゾントだけでなくLEDも使えば、より立体感が増すだろう。また、エンディングの音楽は無理に古墳と関連づけなくてもいいのではないだろうか。役者に関して言えば、暗転時にも観客からはよく見えているので、素の動きは見せない方がいい。
また、内容面では、観光客は高校生の修学旅行客なのか、それとも大人なのかが分かりにくかった。また、なぜ「ヒミちゃん」をみなアイドル視しているのかも十分な説明がなかったように思われる。あと少し内容を膨らませれば、より説得力を増したであろう。
おそらく以下は海部高校文芸・演劇部の皆さんには直接関わりなく参考にもならないと思われるが、欲を言えば、せっかく地元に存在する大里古墳のことをもっと調べて、その歴史学的(科学的)な知見を舞台に盛り込めば、なおいいだろう。そして、「事変に黙って対処した庶民」というイメージは、先の大戦時に小林秀雄が打ち出したものに共通するが、それは一見、時局への無言の抗議であるかに見えて、むしろ中央にとって都合のいい、美化され無害化された地方や民衆の「清く正しく美しい」イメージに収斂してしまいかねないものだ。その点への自覚が、個人的にはもっと欲しい。「高校生観光ボランティア」って、聞こえはいいけど、大人にとって都合のいい、無償労働と違うのか?もし大人が仕事として同じことやったら、いくらもらえるんや?
ほんまの「自発性」や「ボランティア」って、そういう自覚の後に初めて生まれるものと違うか?「やりがい搾取」反対!
【上演2】演劇部の練習風景の中で様々なエチュード(即興の寸劇)が繰り広げられるというのは、高校演劇でも定番の展開であり、翌12日(日)の阿波高校も基本的に同じ構成を採用しているので、鳴門高校がこの題材をどう調理するのか興味深く拝見した。
結論から言えば、定番とは異なる展開をしていたのが興味深かった。すなわち、途中からエチュードは、ショパンのエチュードと関連付けられ、BGMに他ならぬショパンのエチュードが流れる中で、劇中劇のはずだった百物語の怪談の中から、演劇部の部室のある旧校舎の話へと主筋がスライドしていき、そこから新校舎の存在が、未来ある高校生の進路と関連付けられ、部長が母に電話で(おそらくは進路の)相談をもちかけるところで幕切れとなる。つまり、劇中における現実であったはずの演劇部の練習風景という設定は、途中から劇中劇に簒奪されて、その劇中劇の中でも様々なイメージが連想関係の中で並べられて行くという高度な構成になっていた点が興味深かった。タイトルの「エチュード」は、これからの人生の本番に備えた「練習段階」としての高校生のあり方そのものの寓意であるように思われる。何気ないタイトルが観劇後に深い残響や余韻を残す良いネーミングであろう。
演技の面でも、例えば冒頭のコンビニ強盗の件での、関西弁を交えたヤジのところの迫力がすさまじく、もっとその場面を観ていたい気持ちにさせられた。7人中5人が1年生という構成ながら、それを感じさせない完成度であった。
また、素舞台に音楽とともに机が運び込まれ、手拍子とともに作品世界が始まる冒頭も、そのスピード感とこれから何が起こるか分からない期待で観客を楽しませてくれ、優れた演出であった。怪談の百物語でのLEDろうそくの使用も幻想的で美しく、効果的であった。
課題を挙げれば、演出面では、海部もそうであったが、素舞台で大勢が立つ時に、ただ横並びになってしまうのではなく、立ち位置や姿勢に変化をつける工夫があれば、舞台をもっと立体的に構成できただろう。戯曲の面では、演劇部の部室がある旧校舎のことに、舞台の前半部でぜひとも言及すべきであっただろう。前半に劇中の現実と劇中劇とをより明確に区別しておくことで、それが混淆し、やがて入れ替わって行く過程を観客により分かりやすく提示できたであろう。また、部長の進路に関する悩みなども前半部で描いておけば、ラストの展開がさらに効果的であったように思われる。
【上演3】今日1日の中で最も好感を持った作品。まずこの戯曲が生徒創作である点に率直に驚かされた。構成が確かであり、台詞も抑制が効いている。太宰やチャップリンへの目配せもいい。エンディングの音楽との関連にまで配慮が行き届いている(というよりは、おそらく、この一曲を引き立たせるためにこの戯曲が構想されたのではないかとも思える)。まず廃旅館の屋上にたたずむ男(松尾)に、ウーバーイーツよろしく注文された食事を運んできた女(吉川)が出会い、客かと思えば客ではなく、誰かのいたずらかと思って2人が注文されたハンバーガーやポテトやパンケーキを食べていると、実際に注文した女(岡崎)が現れるといった、現実にはあり得ないような人を食った構成が、希死念慮や児童虐待といった深刻なテーマを扱いながらも不思議な軽みをもたらしていた。ラストの松尾と吉川のやりとりも、「死なないで下さい」「お互いやめませんか、こんなこと」といった一筋の光明に思える台詞が事態の急展開や解決をもたらす訳ではなく、吉川が去った後、冒頭と同様に松尾が屋上の柵の前にたたずみ、黒でも白でもない「グレイ」のまま観客に放り出されるのだが、性急な「答え」を無理に提示せず観客に委ねるというのは創作の基本姿勢として正しいと言える(劇評家としてではなく、子どもを持つ中年の身として正直に言えば、若者のこのような姿にはひたすらハラハラしてしまい心穏やかではないが)。
セットも今日1日で最もしっかりしていた。下手前方から上手後方へと斜めに伸びる黒い柵。そして、上手奥には、屋上に通じるドアとそれを囲む壁(いわゆる屋上のでっぱり)。写実的であると同時に象徴的でもあり、簡潔にして要を得た舞台装置であった。
照明効果について言えば、冒頭の夕暮れを思わせるロウアーホリゾントの中で松尾が屋上の柵の前でたたずむ黒い姿は極めて象徴的で美しいものであった。
衣装についても、松尾も吉川も、まるで制服であるかのように白いシャツに黒いズボンを着ている点が、どこまで自覚的かは分からないが、「何か」に統制されきってその外部や残余を自らの生の中に見出しがたい(それゆえに希死念慮に陥らざるを得ない)二人の精神を端的に示しており、幽かに心打たれるものがあった。数年前のニュースでは、誰に命じられた訳でもないのに、大学の入学式や企業の入社式での服装が白シャツと黒スーツに見事に統一されている現状が報じられていた。1980年代の入社式の写真の方に、むしろ多様な色や模様のスーツが見られる点で、日本社会の同調圧力は確実に強まっているのだ。ではなぜか。若者をそこまで追い込んでいるのは一体何なのか?石川啄木の「明日の考察」が求められる急所は、例えばここだ。
演技について言えば3人とも好演であったが、なかでも岡崎の演技がすばらしく、脱力が他の役者との関係をよく成立させていた(これは演技の基本にして到達点であり、それさえできていれば、大抵の芝居はお客さんが安心して観られるものになる)。加えて、「ぼく」という一人称、共通語と関西言葉の絶妙のあわいを行く語り口、それほど張っていないのに芯が通っていてよく届く声など、「揺らぎ」を本質的に含んだ岡崎の演技は、本作の主題たる「あいまいなグレイの現代」を、演技レベルで如実に示しており、「役者の身体こそが演劇表現の本質である」という点において、寡黙にして最も雄弁な表現たり得ていた。
また、劇前後の暗転中に松尾は微動だにすることなくたたずんでいた。特に上演後には観客が退席するまでかなり長時間身動きすることが無かった。これは役者として立派な心がけである。
強いて難を言えば、冒頭の印象的な照明から地灯りにカット・チェンジで移行するのではなく、フェード・チェンジの方が作品の印象を損ねなかったであろう。また、登場人物同士はそれぞれ初対面という設定であり、出会いから関係が構築されていく様子について、もっと細心の注意を払って演技や演出がなされるべきであったであろう。そのような雑味を取り去る作業をいかに手を抜かずに行えるかが、舞台の滑らかさや肌理細やかさの決め手となり、作品の質に直結する。また、煙草を吸ったり人に渡したりする仕草のリアリティには一考の余地があった。戯曲について言えば、キスをしたいといったやりとりの延長線上で、3人がたとえば「家族ごっこ」をするといった、舞台上での関係構築の仕草や儀式が、あともう一つでいいから実現していれば、それがこの劇の味わいを一層深いものにしたであろう。とはいえ、極めて優れて意欲的な舞台であった。
そして、個別の劇評に入る前の、この文章冒頭の総評は、特にこの作品を意識して書かれたものだ。作り手の皆さんはどうか読んで欲しい。心がどんより曇ってなかなか晴れない時には、荒井由実「ひこうき雲」の歌詞のように、時に青空に憧れてしまうこともあるかもしれないが、「グレイ」の現実の中を生き抜き戦い抜いた一人の文学者の言葉を次に引く。「私はひとりで、この空虚のなかの暗夜に挑むほかない。…それにしても暗夜はどこにあるか?今は星なく、月光なく、笑いのかそけさと愛の乱舞もない。青年たちは安らかである。そして私の目の前に、ついに真の暗夜さえないのだ。/絶望は虚妄だ、希望がそうであるように!」(魯迅『野草』)
もっと率直に言おう。死なないで生きてくれ。一緒に闘おう。私たちはもっと明るく、もっと自由に、もっと豊かに、他人の目や評価を気にすることなく生きられるし生きてもいいはずだ。それをさせない世の中を変えて行こう。変えられるはずだ。たとえ全てを思い通りに変えられなかったとしても、変えようとする行動こそが生きる力や証になる。変え方だって千差万別、思い思いでいい。それを、説教くさい言葉としてではなく、実感として共有できるのが演劇や芸術の力ではなかったか。
私は皆さんの舞台から確かにそれを感じ取ることができた。
【上演4】最も危なげなく安心して観ることができた作品。コンクールであれば、それだけで審査員の投票動機となる。まずはそのクオリティの作品を仕上げて来ること自体が、現在の城東演劇部の実力として評価されるべきであろう。試しに、コンクールの審査員風に今作を評価すると以下のようになる。
――21人ものキャストが活人画のように舞台を占拠しており、役者の身体が同時に「動く舞台装置」になるという着想が優れている。私服でスーツケースの集団はどうやら修学旅行帰りで、保護者の「お迎え」を待っている。タイトルの「마중(マジュン)」が韓国語で「お迎え」を意味することは、作品冒頭近い生徒同士の会話から明かされ、同時に、修学旅行の行き先も韓国であっただろうことが示唆される。キャストは全員マスクをしており、コロナ禍で海外に修学旅行に行くのかという、素朴なリアリティの観点からは疑問符の付く設定であるが、どうやらこの劇の主眼はそういうところにないことが段々と分かってくる。それは極めて限定的で抑制され、どこか歪さをもった役者の動きの演出や、登場人物の名前がすべて桃山時代以降の戦国大名の名前に統一されている点などからも窺われ、また、一人一人「お迎え」が来て消えていくという類型的・反復的な行為の連続を通して、そこに単に家に帰るのではない不気味さが立ち昇ってくる不条理劇的な設定によって、このお芝居がリアリズムに依拠した作品ではなく、極めて記号化された寓意的な表現であることが効果的に示されている。
そして、なぜ韓国なのか?そのことに注目すると興味深く不思議な現象が立ち現れる。そこでは、当初、単なる記号に思えた登場人物の名前が、日本では「文禄・慶長の役」と称され朝鮮半島では「倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による朝鮮出兵の事実や、さらに近代日本における朝鮮半島等の植民地支配の問題までをも不意に想起させ、歴史の物言わぬ寓意として観客の無意識からのそっと顔を出すような不気味さまで感じられるのであり、卓抜な仕掛けと言えよう。
役者も抑制された動きの中で、それぞれの個性を十分に演じ分けており、好感が持てる演
技であった。
劇後半の「現地人」や「UFO」といった設定は十分に展開されていなかった嫌いもあるが、徐々に高まっていく不気味な音響と相まって、そのような謎を含んだまま終わる演出も、観劇後の余韻として観客の胸に残るであろう。――
まあ、ざっとこんな感じであろうか。顧問・作者である、よしだあきひろ氏の評価としては、今作に限ったことではなく、「ブレーメン」(2016年)以降の同氏の作品は概ね上記のような評価と理解の内に収まると考えられる。そこに今日の生徒の身体をよく活かしたポストモダン的な記号性や「軽み」やアナーキーな想像力の表出をみて評価する意見が諸氏から聞かれる。そして、それは決して間違いではないのだが、「それがどうした?」というのが私の率直な感想である。2018年にもなって30~40年遅れで「消費社会化」だの「記号」だのといったポストモダン・ワードで同氏の作を評価するプロの演劇人の知的怠慢に、私は心底呆れ果てているのだ。ポストモダン的な相対主義がドナルド・トランプ式のポスト・トゥルース的状況(真実が権力者の恣意によってねじ曲げられる、オーウェル『1984年』的世界)の直接の地盤になっているという、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』の指摘などは一体どう思っているのだろうか?
実際、よしだあきひろ氏の作品における記号性やそれに伴う乾いた笑いの裏側には、タナトス(死の欲動)や終末意識が常に貼り付いており、それを意識しない方が難しいほどだ。そして、それはエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘したようなファシズムの大衆心理に内通するものだ。作者個人がいかに意識的にはリベラルな意見や問題意識を持ち、それを作品に反映させていたとしても、作品が表出する無意識は紛れもなくそうなのだ。そして、よしだ氏の作品が大衆的な広範な支持を得ているとすれば、それは日本社会に瀰漫するタナトスと同氏の作品が共振しているからではないか。そもそも不条理劇は一見社会の常識と対立するように見えながら、社会への問題意識や批判にまで至ることなく、むしろブルジョワ社会における市民の疎外感や不条理感の素朴な「反映」に終始し、結果として現状追認に至る表現形式ではないか?晩年のブレヒトがベケットの「ゴドーを待ちながら」を批判する劇を構想していたのも、このような問題意識が背景にあったのではないかと考えられる。実際、「ブレーメン」以後のよしだ氏の作品では、社会の不条理性や終末感はたびたび描かれるが、いかにそこから抜け出すかという具体的な解決策への希求やその手がかり足がかりが観衆に提示されることはほぼ無く、あったとしても空想的なものにとどまっている(たとえば『意外とゆっくり飛んでいる』(2017年)におけるストやデモの予兆など)。だとすれば、それはこの文章冒頭に引用した石川啄木の言う「哲学的虚無主義」の「絶望」と何が違うのか。それは、よしだあきひろ氏自身の作品にも確かに存在した、例えば『ハムレット・コミューン』(2014年)における政治運動と権力との緊張関係への視座や、『2016』(2015年)における日本社会の「失われた30年」への忸怩たる思いといった、「明日の考察」の萌芽を、自ら抹消していくことを意味していないか?この言葉が個人的な中傷ややっかみではないことを、よしだ氏にどうか信じてほしいと思っている。
とはいえ、「別に生徒やお客さんから支持されて、コンクールで評価されれば、それで何が悪いのか」といった極めて世俗的な価値観で言えば、私ごときの指摘などに中途半端に従えば、たちまち不調に陥ることは間違いないので、どうか忘れて下さい。
第20回文化の森フェスティバル講評
大窪俊之
(第1日)2022.6.11
①海部高校
「ジョゼと虎と魚たち」みたいなタイトル。十万基の古墳。DMV。マスクをした言葉足らずな高校生観光ボランティア。でも、そういうモノをわざわざ売りにしなければならないぎごちなさが、今日の観光施策には堪らなく存在する。授業中のうたた寝のような素朴さの中から、小さな古墳と同じぐらい小さな話が生まれる。思わず「ヤマタイカ」を想起して、そのあまりにも明白な対極性に口を開けてしまう。役者としての力の入れ具合やら、エネルギーの出し具合が、脚本との拮抗になる。ローカル性と脚本の創意を天秤に掛けて、すこし前者が勝つというなにか。
②鳴門高校
エチュードでそれぞれのエピソードを繋ぐ。繋がりは有るようで無い。できることやしたいことを繋いでいった感じ。そうしたら立ち上がってくるのは「できること」と「必然性」の境界という問題だ。オムニバスに通底する一貫性は無理矢理感があってツライものである。役者に身軽さが生まれて、身体にエッジやフックが出始めたらよくなるんだろう。それでも、役者がそこにいて観客がそれを感じることの幸福が感じられる瞬間がいくらかあった。混沌としてエチュードか現実かわからなくなるような境に墜ちたい。言葉で展開すると難しい。
③城北高校
④城東高校
学校のセンセイなら賛同すると思うんだが、生徒がお迎えをまっている光景には何か言いたくなってしまうモノがあるんです。あのさも当然のような態度、煙草を吸い始めの人のような気取り。いかにも社会風刺。像としての舞台美術。人がいないスーツケース群から始まり、あとから人をつける。脚本はあとからやってくる。それが必然というモノだが、たくらみが先に立つ要素も無ければならず、それとは悟らせず両者に折り合いをつける。でも、演劇が終わったあとからじわじわ脚本家が出てくる。それはよかったり悪かったり。まあイイ方が勝っている。難点は宛てられた予定に向かって演技してしまっていること。45分の尺を満足させる修学旅行帰りの親待ち高校生というシチュエーション。集団とは言えない微妙な関係性。20人からの役がだんだん減っていってという最後から逆算された突き放しから、収束ではなくむしろ拡散という冷めた視線。会話は平易であっても含みがあって、どういうことだと考えるまえに会話主体が変わって考え込む暇を与えない。そこがイイのだが、その連続性があるパターンを作ってしまうと単調に感じてしまう。名前が絶妙。ただその名前に値する説得力があれば。ケータイスマホがない時代ならよかったと思う。今の高校生間は、タイシタコトでなくても大袈裟にタイシタコトにしてしまって、なんでもスムーズに出来るせいで、つるつるになってひっかからなくって、おしまい自分の存在の不安におびえて、あえてメンドクサイ手続きなんかしてみたりする。そういうときに訪れる宇宙船的な音は、よもやホントの宇宙船であろう筈がない。
(第2日)2022.6.12
⑤阿波高校
役者の演技に幅が出て進んでいる。本人ソノママではいられないということ、大袈裟にいえばその覚悟が役者には必要である。コロナ状況が意識の内向を進め、身近な世界を無批判にただ肯定する、いわば自己肯定観の低さに起因する自己肯定の強さが今日的な皮相の原因があるとするなら、今ここで「演じる」のではなく「なってしまう」ことの意味は大きいに違いない。しかし、上手でなければ意識が最後まで続かない脚本では、それを見越して大きな演技になってしまう。バスを待ちながら。長い間(ま)。姉さん、自分ばかりを犠牲にして。1923年関東大震災、手紙。文体が役者にない経験を求めてしまう。小さな世界から透視する大きな物語。やはり大柄な演技にならざるを得ないのだ。
⑥徳島市立高校
テンポよく重なる台詞回し。独特の間が最初はムツコくのちに心地良い。そういう風に作られた脚本。ちょっと馬鹿、でも馬鹿であることを隠さない人物がいつか愛着を持って向かえられる。役作りすることを知っている役者はアドリブにも対応。的確に「演じる」ということに向かっている。言葉を中心に進んでゆく脚本に、どこまで身体がついてゆけるか。おそらくその点で、まだ脚本を自分たちのモノにできてはいない。やらなければ、という意識が、身体に力を入れさせ、演劇の面白さを奪い、笑えなくなってしまう。やはり脚本に役者がついて行くのでなく、役者に脚本がついてこないと。「となりのトトロ」やビデオ屋や、ほんのささやかな社会批判、それらはもはやノスタルジックで、小さな世界が新鮮さを持っていた頃の作品。
⑦城南高校
未来人の動きとか、言葉の使い方とか、何らかの異化がのぞまれる。棒立ちの感じはいい。役との向き合い方としては、コレであっているんだ疑ってるキミの方がわかってないんだよ、という開き直りが感じられると面白い。60年代のSF映画の様な絵柄で、ヘンに自己弁護的で、それならば確信犯的に空トボケた世界像を立ち上げて欲しい。演劇空間に身を委ねる感覚、信じるというより投げ出す感覚が必要。台詞の展開を準備して待っている意識が見える。戦争、いつまで、という価値観をあえてマジメに言葉にすると、演劇の意匠と相反する。コロナ禍で日常のミニマムサイズの演劇ばかりが目立つなか、大きな世界に目を向ける意欲作。次回作も期待している。
明日を考察せよ!-2022文化の森演劇フェスティバル初日劇評-
吉田験
〔基本データ〕
2022年6月11日(土)
【上演1】海部高校「海と空と古墳と私」
【上演2】鳴門高校「エチュード」
【上演3】城北高校「グレイ」
【上演4】城東高校「마중(マジュン)」
今から11年前、大江健三郎はすでに現代社会について「この狂気(制禦できないかも知れない幾つもの大暴力が動き始めている社会)」と述べていた(内橋克人編『大震災のなかで』岩波新書)。当時の私は「狂気」という言葉をあまりにも強い表現だと感じていたけれど、それは結局のところ能天気で何も考えていなかったからに過ぎず、その後の11年の歩みのなかで、個人的な生活でも、また社会事象の上においても、何度も血反吐を吐き、煮え湯を飲まされるような耐え難い苦痛を経た後に、大江の言葉の正確無比さを、馬鹿な私もようやく実感するに至った。
では、この狂気に我々はいかに向き合うべきか。私はぜひ石川啄木の「時代閉塞の現状」(1910年)を読んで欲しいと思っている。100年以上前の文章だろうが、そんなことは一切関係ない。むしろ我々の表現が石川の文章よりも「新しい」保証はどこにもない。「時代閉塞の現状」が切り拓いた地平のはるか後方で、我々は単に後の時代に生まれたという一事をもって自分たちのことを「新しい」と錯覚しているだけかもしれない。
例えば、石川はこう言っている。「彼の早くから我々の間に竄入している哲学的虚無主義の如きも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものである事は言うまでもない。それは一見彼の強権を敵としているようであるけれども、そうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼等は実に一切の人間の活動を白眼をもって見るが如く、強権の存在に対してもまた全く没交渉なのである。――それだけ絶望的なのである。」
今日上演された4作の中にも、現代における「時代閉塞」を描いた作品が複数あった。そして、それは何も上記の4作や徳島の高校演劇に限った話ではなく、ここ数年の全国大会において「閉塞感」としてしばしば指摘される傾向と共通しているとさえ言える。だが、石川のこの今なお完全に妥当する無慈悲なほど正確な指摘に対して「違う」と言える作品が、はたして一体いくつあるだろうか。
私の言いたいのは決して「高校生らしく明るく元気に前を向いて」などと言うことではない。暗く、重苦しく、救いのないものにどうしようもなく惹かれるのならば、その感覚を決して手放してはいけない。それこそが表現の出発点である。
だが、同時に、それは表現の出発点でしかない。そこにとどまることは表現者の仕事ではなく、問題はその先にある。そもそも素朴にこう思わないか?――何人もの若者が口をそろえて「死にたい」と言う社会が、はたしてまともか?「その原因は若者の弱さにある」だと?むしろ逆ではないのか?社会の方が狂っているからではないか?――
この時初めて、我々の表現は、石川啄木の言う「批評」=「明日の考察」の強度をはらむ。かりそめの希望でも、たんにそれを裏返しただけの虚妄の絶望でもない、現実に立ち向かう強度や批評を有した作品や作り手の出現を、たとえどんなに困難な状況にあっても、私は待ち望んでいる。
無論それは、社会の支配的な価値観を無自覚に内面化している自分自身のあり方に対して最も峻厳な疑問や批判をぶつけることを通して、自己も社会も再び生かそうとする道に他ならない。その点で、ここで言われる「批評」とは何よりもまず「自己批評」なのであって、それは「自分は悪くない。悪いのは今の世の中の方だ!」というような戯言への正確な対偶命題としてある。
たとえ高校生でも、高校演劇でも、上記のような条件は変わらない。鳴門高校の上演でも触れられていたように、ショパンのエチュードは練習曲でありながら一個の芸術作品である。同様に、高校演劇も、年若い高校生による習作の側面を有しながらも、同時にそれは純然たる一個の演劇表現である。
【上演1】海部高校の近隣にある大里古墳をモデルとした「こざと(小里?古里?)古墳」が舞台。そこにツアーガイドと7人の観光客。ツアーガイドは明らかに高校生の制服を着ており、観ているとそこに違和を感じるのだが、それが後に、「高校生観光ボランティア」という(おそらくは架空の)役職であることが明かされ、違和や疑問が解消されるという仕組みになっている。これは、その後の、古墳から現れた古代人の衣装を着た女性が卑弥呼ではないかという、ファンタジー的設定に観客を導いておきながら、実はツアーガイドの同級生で古代人の格好をしてダンスも披露する「ヒミちゃん」であると明かされるのと同じ展開である。このように観客を意図的にミスリードしておいて後から種明かしをするのがこの劇の基本的な構成であり、その意外性の点で、観客の関心をよく喚起し得ていた。ダンスシーンも本格的で、客席からは拍手も起きていた。観光客はDMVに乗り、「ヒミちゃん」と写真を撮った後、立ち去る。「ヒミちゃん」のことを古墳から抜け出た卑弥呼と勘違いし、自分たちの郷里の古墳が実は卑弥呼の墓かもしれないと一時期待した後輩のツアーガイドの男性に対して、先輩の女性ツアーガイドは「海と山と古墳があれば十分」ということを言う。大きな事件は起こらない、日常の点描を主とする作品であり、「海と山と古墳があれば十分」という言葉も、何気なく、かつ、さりげなく発せられる言葉でありながら、観客の胸にじんわりと沁みてくる良質の科白であり、この劇の主題をよく伝えていた。「邪馬台国」や「卑弥呼」といった、地域の観光の起爆剤になると同時にナショナルな関心に吸収されがちな話題に対して慎重に距離を取り、生まれ育った地域で物静かに地道に暮らす高校生像に胸打たれた観衆も多いであろう。昨年度より脚本の構成も役者の練度も良く、充実した舞台であった。
強いて技術的な面での改善点を述べれば、演技の強弱・メリハリをより一層意識し、場面の切り替わりにおける照明や音響にもう一工夫あれば、なお良いだろう。例えば、ダンスシーンへの移行は、カット・チェンジではなくフェード・チェンジにし、そこにダンスを丁寧にシンクロさせれば、それだけで舞台の完成度は格段に向上する。色付けはホリゾントだけでなくLEDも使えば、より立体感が増すだろう。また、エンディングの音楽は無理に古墳と関連づけなくてもいいのではないだろうか。役者に関して言えば、暗転時にも観客からはよく見えているので、素の動きは見せない方がいい。
また、内容面では、観光客は高校生の修学旅行客なのか、それとも大人なのかが分かりにくかった。また、なぜ「ヒミちゃん」をみなアイドル視しているのかも十分な説明がなかったように思われる。あと少し内容を膨らませれば、より説得力を増したであろう。
おそらく以下は海部高校文芸・演劇部の皆さんには直接関わりなく参考にもならないと思われるが、欲を言えば、せっかく地元に存在する大里古墳のことをもっと調べて、その歴史学的(科学的)な知見を舞台に盛り込めば、なおいいだろう。そして、「事変に黙って対処した庶民」というイメージは、先の大戦時に小林秀雄が打ち出したものに共通するが、それは一見、時局への無言の抗議であるかに見えて、むしろ中央にとって都合のいい、美化され無害化された地方や民衆の「清く正しく美しい」イメージに収斂してしまいかねないものだ。その点への自覚が、個人的にはもっと欲しい。「高校生観光ボランティア」って、聞こえはいいけど、大人にとって都合のいい、無償労働と違うのか?もし大人が仕事として同じことやったら、いくらもらえるんや?
ほんまの「自発性」や「ボランティア」って、そういう自覚の後に初めて生まれるものと違うか?「やりがい搾取」反対!
【上演2】演劇部の練習風景の中で様々なエチュード(即興の寸劇)が繰り広げられるというのは、高校演劇でも定番の展開であり、翌12日(日)の阿波高校も基本的に同じ構成を採用しているので、鳴門高校がこの題材をどう調理するのか興味深く拝見した。
結論から言えば、定番とは異なる展開をしていたのが興味深かった。すなわち、途中からエチュードは、ショパンのエチュードと関連付けられ、BGMに他ならぬショパンのエチュードが流れる中で、劇中劇のはずだった百物語の怪談の中から、演劇部の部室のある旧校舎の話へと主筋がスライドしていき、そこから新校舎の存在が、未来ある高校生の進路と関連付けられ、部長が母に電話で(おそらくは進路の)相談をもちかけるところで幕切れとなる。つまり、劇中における現実であったはずの演劇部の練習風景という設定は、途中から劇中劇に簒奪されて、その劇中劇の中でも様々なイメージが連想関係の中で並べられて行くという高度な構成になっていた点が興味深かった。タイトルの「エチュード」は、これからの人生の本番に備えた「練習段階」としての高校生のあり方そのものの寓意であるように思われる。何気ないタイトルが観劇後に深い残響や余韻を残す良いネーミングであろう。
演技の面でも、例えば冒頭のコンビニ強盗の件での、関西弁を交えたヤジのところの迫力がすさまじく、もっとその場面を観ていたい気持ちにさせられた。7人中5人が1年生という構成ながら、それを感じさせない完成度であった。
また、素舞台に音楽とともに机が運び込まれ、手拍子とともに作品世界が始まる冒頭も、そのスピード感とこれから何が起こるか分からない期待で観客を楽しませてくれ、優れた演出であった。怪談の百物語でのLEDろうそくの使用も幻想的で美しく、効果的であった。
課題を挙げれば、演出面では、海部もそうであったが、素舞台で大勢が立つ時に、ただ横並びになってしまうのではなく、立ち位置や姿勢に変化をつける工夫があれば、舞台をもっと立体的に構成できただろう。戯曲の面では、演劇部の部室がある旧校舎のことに、舞台の前半部でぜひとも言及すべきであっただろう。前半に劇中の現実と劇中劇とをより明確に区別しておくことで、それが混淆し、やがて入れ替わって行く過程を観客により分かりやすく提示できたであろう。また、部長の進路に関する悩みなども前半部で描いておけば、ラストの展開がさらに効果的であったように思われる。
【上演3】今日1日の中で最も好感を持った作品。まずこの戯曲が生徒創作である点に率直に驚かされた。構成が確かであり、台詞も抑制が効いている。太宰やチャップリンへの目配せもいい。エンディングの音楽との関連にまで配慮が行き届いている(というよりは、おそらく、この一曲を引き立たせるためにこの戯曲が構想されたのではないかとも思える)。まず廃旅館の屋上にたたずむ男(松尾)に、ウーバーイーツよろしく注文された食事を運んできた女(吉川)が出会い、客かと思えば客ではなく、誰かのいたずらかと思って2人が注文されたハンバーガーやポテトやパンケーキを食べていると、実際に注文した女(岡崎)が現れるといった、現実にはあり得ないような人を食った構成が、希死念慮や児童虐待といった深刻なテーマを扱いながらも不思議な軽みをもたらしていた。ラストの松尾と吉川のやりとりも、「死なないで下さい」「お互いやめませんか、こんなこと」といった一筋の光明に思える台詞が事態の急展開や解決をもたらす訳ではなく、吉川が去った後、冒頭と同様に松尾が屋上の柵の前にたたずみ、黒でも白でもない「グレイ」のまま観客に放り出されるのだが、性急な「答え」を無理に提示せず観客に委ねるというのは創作の基本姿勢として正しいと言える(劇評家としてではなく、子どもを持つ中年の身として正直に言えば、若者のこのような姿にはひたすらハラハラしてしまい心穏やかではないが)。
セットも今日1日で最もしっかりしていた。下手前方から上手後方へと斜めに伸びる黒い柵。そして、上手奥には、屋上に通じるドアとそれを囲む壁(いわゆる屋上のでっぱり)。写実的であると同時に象徴的でもあり、簡潔にして要を得た舞台装置であった。
照明効果について言えば、冒頭の夕暮れを思わせるロウアーホリゾントの中で松尾が屋上の柵の前でたたずむ黒い姿は極めて象徴的で美しいものであった。
衣装についても、松尾も吉川も、まるで制服であるかのように白いシャツに黒いズボンを着ている点が、どこまで自覚的かは分からないが、「何か」に統制されきってその外部や残余を自らの生の中に見出しがたい(それゆえに希死念慮に陥らざるを得ない)二人の精神を端的に示しており、幽かに心打たれるものがあった。数年前のニュースでは、誰に命じられた訳でもないのに、大学の入学式や企業の入社式での服装が白シャツと黒スーツに見事に統一されている現状が報じられていた。1980年代の入社式の写真の方に、むしろ多様な色や模様のスーツが見られる点で、日本社会の同調圧力は確実に強まっているのだ。ではなぜか。若者をそこまで追い込んでいるのは一体何なのか?石川啄木の「明日の考察」が求められる急所は、例えばここだ。
演技について言えば3人とも好演であったが、なかでも岡崎の演技がすばらしく、脱力が他の役者との関係をよく成立させていた(これは演技の基本にして到達点であり、それさえできていれば、大抵の芝居はお客さんが安心して観られるものになる)。加えて、「ぼく」という一人称、共通語と関西言葉の絶妙のあわいを行く語り口、それほど張っていないのに芯が通っていてよく届く声など、「揺らぎ」を本質的に含んだ岡崎の演技は、本作の主題たる「あいまいなグレイの現代」を、演技レベルで如実に示しており、「役者の身体こそが演劇表現の本質である」という点において、寡黙にして最も雄弁な表現たり得ていた。
また、劇前後の暗転中に松尾は微動だにすることなくたたずんでいた。特に上演後には観客が退席するまでかなり長時間身動きすることが無かった。これは役者として立派な心がけである。
強いて難を言えば、冒頭の印象的な照明から地灯りにカット・チェンジで移行するのではなく、フェード・チェンジの方が作品の印象を損ねなかったであろう。また、登場人物同士はそれぞれ初対面という設定であり、出会いから関係が構築されていく様子について、もっと細心の注意を払って演技や演出がなされるべきであったであろう。そのような雑味を取り去る作業をいかに手を抜かずに行えるかが、舞台の滑らかさや肌理細やかさの決め手となり、作品の質に直結する。また、煙草を吸ったり人に渡したりする仕草のリアリティには一考の余地があった。戯曲について言えば、キスをしたいといったやりとりの延長線上で、3人がたとえば「家族ごっこ」をするといった、舞台上での関係構築の仕草や儀式が、あともう一つでいいから実現していれば、それがこの劇の味わいを一層深いものにしたであろう。とはいえ、極めて優れて意欲的な舞台であった。
そして、個別の劇評に入る前の、この文章冒頭の総評は、特にこの作品を意識して書かれたものだ。作り手の皆さんはどうか読んで欲しい。心がどんより曇ってなかなか晴れない時には、荒井由実「ひこうき雲」の歌詞のように、時に青空に憧れてしまうこともあるかもしれないが、「グレイ」の現実の中を生き抜き戦い抜いた一人の文学者の言葉を次に引く。「私はひとりで、この空虚のなかの暗夜に挑むほかない。…それにしても暗夜はどこにあるか?今は星なく、月光なく、笑いのかそけさと愛の乱舞もない。青年たちは安らかである。そして私の目の前に、ついに真の暗夜さえないのだ。/絶望は虚妄だ、希望がそうであるように!」(魯迅『野草』)
もっと率直に言おう。死なないで生きてくれ。一緒に闘おう。私たちはもっと明るく、もっと自由に、もっと豊かに、他人の目や評価を気にすることなく生きられるし生きてもいいはずだ。それをさせない世の中を変えて行こう。変えられるはずだ。たとえ全てを思い通りに変えられなかったとしても、変えようとする行動こそが生きる力や証になる。変え方だって千差万別、思い思いでいい。それを、説教くさい言葉としてではなく、実感として共有できるのが演劇や芸術の力ではなかったか。
私は皆さんの舞台から確かにそれを感じ取ることができた。
【上演4】最も危なげなく安心して観ることができた作品。コンクールであれば、それだけで審査員の投票動機となる。まずはそのクオリティの作品を仕上げて来ること自体が、現在の城東演劇部の実力として評価されるべきであろう。試しに、コンクールの審査員風に今作を評価すると以下のようになる。
――21人ものキャストが活人画のように舞台を占拠しており、役者の身体が同時に「動く舞台装置」になるという着想が優れている。私服でスーツケースの集団はどうやら修学旅行帰りで、保護者の「お迎え」を待っている。タイトルの「마중(マジュン)」が韓国語で「お迎え」を意味することは、作品冒頭近い生徒同士の会話から明かされ、同時に、修学旅行の行き先も韓国であっただろうことが示唆される。キャストは全員マスクをしており、コロナ禍で海外に修学旅行に行くのかという、素朴なリアリティの観点からは疑問符の付く設定であるが、どうやらこの劇の主眼はそういうところにないことが段々と分かってくる。それは極めて限定的で抑制され、どこか歪さをもった役者の動きの演出や、登場人物の名前がすべて桃山時代以降の戦国大名の名前に統一されている点などからも窺われ、また、一人一人「お迎え」が来て消えていくという類型的・反復的な行為の連続を通して、そこに単に家に帰るのではない不気味さが立ち昇ってくる不条理劇的な設定によって、このお芝居がリアリズムに依拠した作品ではなく、極めて記号化された寓意的な表現であることが効果的に示されている。
そして、なぜ韓国なのか?そのことに注目すると興味深く不思議な現象が立ち現れる。そこでは、当初、単なる記号に思えた登場人物の名前が、日本では「文禄・慶長の役」と称され朝鮮半島では「倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による朝鮮出兵の事実や、さらに近代日本における朝鮮半島等の植民地支配の問題までをも不意に想起させ、歴史の物言わぬ寓意として観客の無意識からのそっと顔を出すような不気味さまで感じられるのであり、卓抜な仕掛けと言えよう。
役者も抑制された動きの中で、それぞれの個性を十分に演じ分けており、好感が持てる演
技であった。
劇後半の「現地人」や「UFO」といった設定は十分に展開されていなかった嫌いもあるが、徐々に高まっていく不気味な音響と相まって、そのような謎を含んだまま終わる演出も、観劇後の余韻として観客の胸に残るであろう。――
まあ、ざっとこんな感じであろうか。顧問・作者である、よしだあきひろ氏の評価としては、今作に限ったことではなく、「ブレーメン」(2016年)以降の同氏の作品は概ね上記のような評価と理解の内に収まると考えられる。そこに今日の生徒の身体をよく活かしたポストモダン的な記号性や「軽み」やアナーキーな想像力の表出をみて評価する意見が諸氏から聞かれる。そして、それは決して間違いではないのだが、「それがどうした?」というのが私の率直な感想である。2018年にもなって30~40年遅れで「消費社会化」だの「記号」だのといったポストモダン・ワードで同氏の作を評価するプロの演劇人の知的怠慢に、私は心底呆れ果てているのだ。ポストモダン的な相対主義がドナルド・トランプ式のポスト・トゥルース的状況(真実が権力者の恣意によってねじ曲げられる、オーウェル『1984年』的世界)の直接の地盤になっているという、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』の指摘などは一体どう思っているのだろうか?
実際、よしだあきひろ氏の作品における記号性やそれに伴う乾いた笑いの裏側には、タナトス(死の欲動)や終末意識が常に貼り付いており、それを意識しない方が難しいほどだ。そして、それはエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘したようなファシズムの大衆心理に内通するものだ。作者個人がいかに意識的にはリベラルな意見や問題意識を持ち、それを作品に反映させていたとしても、作品が表出する無意識は紛れもなくそうなのだ。そして、よしだ氏の作品が大衆的な広範な支持を得ているとすれば、それは日本社会に瀰漫するタナトスと同氏の作品が共振しているからではないか。そもそも不条理劇は一見社会の常識と対立するように見えながら、社会への問題意識や批判にまで至ることなく、むしろブルジョワ社会における市民の疎外感や不条理感の素朴な「反映」に終始し、結果として現状追認に至る表現形式ではないか?晩年のブレヒトがベケットの「ゴドーを待ちながら」を批判する劇を構想していたのも、このような問題意識が背景にあったのではないかと考えられる。実際、「ブレーメン」以後のよしだ氏の作品では、社会の不条理性や終末感はたびたび描かれるが、いかにそこから抜け出すかという具体的な解決策への希求やその手がかり足がかりが観衆に提示されることはほぼ無く、あったとしても空想的なものにとどまっている(たとえば『意外とゆっくり飛んでいる』(2017年)におけるストやデモの予兆など)。だとすれば、それはこの文章冒頭に引用した石川啄木の言う「哲学的虚無主義」の「絶望」と何が違うのか。それは、よしだあきひろ氏自身の作品にも確かに存在した、例えば『ハムレット・コミューン』(2014年)における政治運動と権力との緊張関係への視座や、『2016』(2015年)における日本社会の「失われた30年」への忸怩たる思いといった、「明日の考察」の萌芽を、自ら抹消していくことを意味していないか?この言葉が個人的な中傷ややっかみではないことを、よしだ氏にどうか信じてほしいと思っている。
とはいえ、「別に生徒やお客さんから支持されて、コンクールで評価されれば、それで何が悪いのか」といった極めて世俗的な価値観で言えば、私ごときの指摘などに中途半端に従えば、たちまち不調に陥ることは間違いないので、どうか忘れて下さい。
第20回文化の森フェスティバル講評
大窪俊之
(第1日)2022.6.11
①海部高校
「ジョゼと虎と魚たち」みたいなタイトル。十万基の古墳。DMV。マスクをした言葉足らずな高校生観光ボランティア。でも、そういうモノをわざわざ売りにしなければならないぎごちなさが、今日の観光施策には堪らなく存在する。授業中のうたた寝のような素朴さの中から、小さな古墳と同じぐらい小さな話が生まれる。思わず「ヤマタイカ」を想起して、そのあまりにも明白な対極性に口を開けてしまう。役者としての力の入れ具合やら、エネルギーの出し具合が、脚本との拮抗になる。ローカル性と脚本の創意を天秤に掛けて、すこし前者が勝つというなにか。
②鳴門高校
エチュードでそれぞれのエピソードを繋ぐ。繋がりは有るようで無い。できることやしたいことを繋いでいった感じ。そうしたら立ち上がってくるのは「できること」と「必然性」の境界という問題だ。オムニバスに通底する一貫性は無理矢理感があってツライものである。役者に身軽さが生まれて、身体にエッジやフックが出始めたらよくなるんだろう。それでも、役者がそこにいて観客がそれを感じることの幸福が感じられる瞬間がいくらかあった。混沌としてエチュードか現実かわからなくなるような境に墜ちたい。言葉で展開すると難しい。
③城北高校
④城東高校
学校のセンセイなら賛同すると思うんだが、生徒がお迎えをまっている光景には何か言いたくなってしまうモノがあるんです。あのさも当然のような態度、煙草を吸い始めの人のような気取り。いかにも社会風刺。像としての舞台美術。人がいないスーツケース群から始まり、あとから人をつける。脚本はあとからやってくる。それが必然というモノだが、たくらみが先に立つ要素も無ければならず、それとは悟らせず両者に折り合いをつける。でも、演劇が終わったあとからじわじわ脚本家が出てくる。それはよかったり悪かったり。まあイイ方が勝っている。難点は宛てられた予定に向かって演技してしまっていること。45分の尺を満足させる修学旅行帰りの親待ち高校生というシチュエーション。集団とは言えない微妙な関係性。20人からの役がだんだん減っていってという最後から逆算された突き放しから、収束ではなくむしろ拡散という冷めた視線。会話は平易であっても含みがあって、どういうことだと考えるまえに会話主体が変わって考え込む暇を与えない。そこがイイのだが、その連続性があるパターンを作ってしまうと単調に感じてしまう。名前が絶妙。ただその名前に値する説得力があれば。ケータイスマホがない時代ならよかったと思う。今の高校生間は、タイシタコトでなくても大袈裟にタイシタコトにしてしまって、なんでもスムーズに出来るせいで、つるつるになってひっかからなくって、おしまい自分の存在の不安におびえて、あえてメンドクサイ手続きなんかしてみたりする。そういうときに訪れる宇宙船的な音は、よもやホントの宇宙船であろう筈がない。
(第2日)2022.6.12
⑤阿波高校
役者の演技に幅が出て進んでいる。本人ソノママではいられないということ、大袈裟にいえばその覚悟が役者には必要である。コロナ状況が意識の内向を進め、身近な世界を無批判にただ肯定する、いわば自己肯定観の低さに起因する自己肯定の強さが今日的な皮相の原因があるとするなら、今ここで「演じる」のではなく「なってしまう」ことの意味は大きいに違いない。しかし、上手でなければ意識が最後まで続かない脚本では、それを見越して大きな演技になってしまう。バスを待ちながら。長い間(ま)。姉さん、自分ばかりを犠牲にして。1923年関東大震災、手紙。文体が役者にない経験を求めてしまう。小さな世界から透視する大きな物語。やはり大柄な演技にならざるを得ないのだ。
⑥徳島市立高校
テンポよく重なる台詞回し。独特の間が最初はムツコくのちに心地良い。そういう風に作られた脚本。ちょっと馬鹿、でも馬鹿であることを隠さない人物がいつか愛着を持って向かえられる。役作りすることを知っている役者はアドリブにも対応。的確に「演じる」ということに向かっている。言葉を中心に進んでゆく脚本に、どこまで身体がついてゆけるか。おそらくその点で、まだ脚本を自分たちのモノにできてはいない。やらなければ、という意識が、身体に力を入れさせ、演劇の面白さを奪い、笑えなくなってしまう。やはり脚本に役者がついて行くのでなく、役者に脚本がついてこないと。「となりのトトロ」やビデオ屋や、ほんのささやかな社会批判、それらはもはやノスタルジックで、小さな世界が新鮮さを持っていた頃の作品。
⑦城南高校
未来人の動きとか、言葉の使い方とか、何らかの異化がのぞまれる。棒立ちの感じはいい。役との向き合い方としては、コレであっているんだ疑ってるキミの方がわかってないんだよ、という開き直りが感じられると面白い。60年代のSF映画の様な絵柄で、ヘンに自己弁護的で、それならば確信犯的に空トボケた世界像を立ち上げて欲しい。演劇空間に身を委ねる感覚、信じるというより投げ出す感覚が必要。台詞の展開を準備して待っている意識が見える。戦争、いつまで、という価値観をあえてマジメに言葉にすると、演劇の意匠と相反する。コロナ禍で日常のミニマムサイズの演劇ばかりが目立つなか、大きな世界に目を向ける意欲作。次回作も期待している。