「STORY of story」とてもよくできた群像劇で、登場人物のそれぞれの葛藤や気持ちがよく描かれていて、また演じる役者もきちんと演じていて好感が持てる芝居でした。脚本、役者共に非常に高いレベルの上演だったと思います。この芝居での課題は小道具と舞台設定だと感じました。この部屋はいったいどんな部屋なのか、よくわからず混乱する場面がありました。最初下手からみんな登場していたので下手に入り口があるのはわかるのですが、では上手には流台があるのでしょうか?それにしては(先輩と話をするときに後輩に聞かれないように人払い的にお茶を入れに行かせるシーンがありましたが)遠くないでしょうか?どんな大きさの部屋なんでしょうか?部室なんですか?どんな部屋なんでしょうか。さらに先生が上手から登場するといよいよ客は混乱してしまいます。上手はどこにつながっているのでしょうか、実は上手にも入り口があるのでしょうか?こういうことで客を混乱させると芝居に入り込めなくなってしまうので、もう少しアイデアを出し合ってこの部屋のレイアウトを詰める必要があると思いました。また、小道具がもったいない。魅力的な小道具ばかりで、選んだセンスもいいのに。ギターにしても望遠鏡にしても使います→使いました→以上、みたいな「いかにも」感がしてしまいます。ギターも弾いてしまえばお役御免みたいに片付けられてしまうといかにもご都合な感じがしてしまいます。実は小道具と言うのは難しいのです。必要なものは置かないといけないし、でも花言葉の話題のために花を飾っておく、そして話題が過ぎればもう触れられることもない、とかではちょっとわざとらしい。長い時間使われているに違いないこの部屋に、この40分間に必要なものしか存在しない、では不自然ですからね。リアリティというのは難しいのです。例えば部室に花を飾る必然性みたいなものを設定しておくとわざとらしさが少しは隠せるかもしれません。見せ転もよかったですね。きびきび動けていて効果的でした。ただ、転換後が数分後なのか日が変わっているのかセリフではなく見た目で客にわかるようにする方が親切だと思いました。城南
2021.6.26文化の森フェスティバル 第2週 講評
大窪俊之
それは新型コロナ反動の集積によって伺えるなにかだ。人は自身の生活経験の近くにあるものを自然と肯定し、また求めるようにできている。観客と役者の距離は経験的に疑われはしないが、「近さ」の感覚はもはや別のなにかに変わって、一々把捉する煩わしさを避けている。コロナのせいというのではない。ただコロナ状況が、とっくに取り沙汰されていたはずの、遠近感の混乱を顕在化させたというにすぎない。したがって、われわれの不機嫌はコロナウイルスが原因ではない。巨視的なスケールの世界像が一個人の身丈に合わなくなった現代は、他者とは何かという問題を突きつけられる息苦しさに対する、人類史上もっとも神経質な時代。それが人々の行為に顕れているからである。「コロナ」という語が吐かれたら、もう「仕方がない」と諦め、居直り、言い訳に着地してしまう状況。この現代の問題をよりよき意味で演劇の俎上に載せるためには、収まりのいい(目をつけられない)ところで安住していてはダメなのだ。勇気を奮い起こして、現代を対象化するしかない。
阿波高校は創作意図がよく出た作品。土着性を素材にしたいつもの切り口。貧困も日常性も、個人の事情も全て関係なく、交々に巻き込んでゆく国家権力の表徴としてのオリンピック。大きな正義(らしきモノ)のために、ちっぽけな個々の存在が踏みにじられてゆく光景。踏みにじられているという印象は、登場人物たちにはあまりない。地元のコンビニではダメでゆめタウンのスタバならいいという論理は、有名になってお金持ちになって拡散オネガイという価値観に通じている。都合や説明的なセリフは至極多い。観客がいるからうったえる意味もあるわけだが、あんまり観客を信用はしていない(いやできない)。わかりやすくわかりやすく、これでもかとわかりやすく作る演出がイイかどうかは別にして、そうするからこそ作者の強いパッションは際立つ。必然的に、役者がそれに応える、という働きになる。上演の出来は熱量の問題になってゆく。熱量が高ければいいのではない。出すところで出し、引くところは引く。神社や祠の描き方が一周してきて脳裏をかすめる。地縁的なものへの愛着が根源にあって、自虐的なネタでもちゃんとあたたかい笑いになっている。
板野高校は普段の活動を想像させる生徒創作。未来を信じる「若さ」に依った瑞々しさ。落とし込みたい結論があるので、そのことに自覚的かどうかが演劇の成立する位置を決める。言葉によって展開する脚本は特別な演出の質感を要求する。現状の演出を当たり前だと考えないこと。潮目が変わるところにかぎって映像的(テレビドラマ的)な処理が行われる。対面会話の代替であるリモート会話の表現を実際の会話でやるという倒錯した演出にはうなった。おそらく、そうするしかないという必然が生んだ偶然の効果である。しかし全体的には演出についてもっと苦しんだらもっといいところに落ち着く。脚本が決定的に舞台の方向性を作り、役者はそれを疑わない。脚本と演技の拮抗がなく、相克してしまう。脚本をもっと読むこと。自分の声がどう聞こえているかを疑うこと。疑ったら演技だろと脚本だろうと変えるところは変える。
役者と役の質感の差を演出に生かそうとしたのは富岡東高校。部員の演劇の幅や可能性を広げようとする習作。むかし九州の隼人が狩猟をするとき、鉢巻きの額部分にまじないで獣の血をつけたという日の丸起源説。あらがえないモノが押し寄せる感覚は、まつろわぬ者の存在によって実体化する。決してコロナのためでない、「これはコロナでない感染」とセリフでも言う。帰属こそ存在そのものであるという認識論からは、近隣高校との統合は自己の喪失を意味する点で認めがたい。しかし「平成の大合併」では全国の市町村数が2/3に減った。たとえ行政区画の名前だろうと、記号が帰属性に与える影響は大きい。帰属性が内面化する経験の前に馴染みのないエスニックから離れていってしまう。ショックドクトリンの裏面で権力が描き出そうとする明るい未来。「あかるい全体主義」がみんなをオカシくして、ケナゲにも誰かが「いけるんか、いけるんか」って言う。あっという間に終わってしまったのは残念で、せめてあと10分長ければと思う。
「わかりやすさ」の感覚は、本来多元的で多面的で個別的なものだろう。それが一面化してしまうことは、自身の存在に確信が持てなくなった証である。ある規則性を持っていくつかの価値観が並ぶ平野を横目に、われわれは選択的な生を生かされる。たちまち存在論的な疑いが頭をもたげ、何かにこだわってみせるそぶりに落ちる。しかしそれも、ありきたりな選択行為の域を出ない。認められない自分は許せない気位の高さの末路である。他を過度に意識することなく自身の感受性に素直なドンファン的イノセントをわれわれは失った。ただ現象があるのみという世界認識は物語に回収され、意味と価値を共有することでつかのま安心を得ている。そこでの「わかりやすさ」は安心の材料でしかない。
「コロナ」という命名には、現象との奇妙な一体感がある。ウイルス感染は人類史、脊椎動物史にとって特別な現象ではない。ウイルス共生はヒトにとってもあたりまえな生存戦略である。今日のセンシティブなコロナ対策はいつか別の根源的な問題をヒト社会に突きつけることになるだろうが、そうした恐れを実感しながらも、政治権力は人を抑圧し規定の行為に押し込める。現代に100年前同様の芸術創造があり得るだろうか。あの暗い時代の轍を、このたびもまた踏むことになるかもしれない。あっけなく死んでしまった有名人をスケープゴートに使い、この災禍に限っては金持ちも貧乏人も関係なく(ホントにそうだろうか)暴露するのだという共同幻想が導く都合のいい悪平等主義が、鬱憤晴らしや攻撃性などと歩調をそろえて、全体主義への道を招来している。演劇はそれほそのどかではいられない。
今回がはじめての舞台という生徒が大半で、また部活動の制約もあってか、訳あり、都合、説明の多さが気にかかる。しかし、新しい部員たちの期待感は見ているとやはりほほえましい。やれることをやっている。この機にいろんなことを学んでほしい。
講評
徳島県立富岡東高等学校演劇部顧問 坂本 政人
事務局より27日上演分の講評係を拝命しましたので、簡単ですが感想を述べたいと思います。今回「も」、難しいことは言いませんので、お茶でもしながら軽い気持ちで読んでください。そもそも僕はただの数学教師なので、そういう奴が何言ってもまったく気にすることではありません。「なるほどな」とか「役に立ったな」といった内容が1行でもあればラッキーという程度でお気楽にどうぞ。それでは、上演順に。 富岡西 「ヒーロー研究部の大冒険~隠された㊙編~」 実は、僕はこういうバカバカしい(褒めてます)のが大好きなので、大変面白く見せてもらいました。その上でいくつか気になった点を。 幕開き、セリフ回しが絶妙で一気に引き込まれますが、体の動きのキレがついて行っていません。こういうセリフ回しをする場合はセリフ回しに見合ったキレのある動きが必要です。例えば手を動かす場合でも動かし始めの位置からキメの位置まで最短距離で一気に持っていく。キメのポーズはキメきる。つまりキメの位置に持ってきたらそこでピタッと止めて次の動きに移るまで動かない、といった工夫と訓練が必要です。この役者に限った話ではなく、部員全体でそういう意識が必要だと思います。 みんなが黒歴史を回想するシーン、最初は暗転からサスがうるさいと思ったのですが、あれだけ繰り返しやられるとうるささより可笑しさの方が勝ってきて、笑いがこみ上げてきました。これをもっと面白くするためにはスタッフワークを鍛えましょう。ゲージの上げ下げの速さがフェードアウトなのかカットアウトなのか微妙で、スピード感があるのかないのか。もっと速さ、タイミングともにテンポよくすればもっと面白くできたはずです。もちろんそうなれば、それに合わせて役者もキビキビとしたキレのある動きでサスの位置に入る、といった体の能力も要求されます。 また、舞台中と袖とで芝居が進むシーンがありましたが、ちょっと長いと感じましたし、座った位置も関係しているのかもしれませんが、袖からのセリフが聞き取りにくい箇所が何箇所もありました(上手端の席に座ったので、セリフが幕に吸われてしまったのかもしれません)。いっそ上下にアクティングエリアを分けて両方舞台上でやってもよかったのかもしれません。 演技の上では、考えるシーンで顎に手を当てるといった「いかにも」な動作が何箇所かあったのも気になりました。こういうお決まりのやりかたや定型的な処理というのは表現の幅や役者の工夫、アイデアの余地を狭めてしまうので、安易には使わない方がいいでしょう。 鳴門
「全校ワックス」 まず、各校がコロナ禍で練習時間を確保できず短い芝居を強いられる中(富東もクラスター発生による休校で長尺の芝居を断念し、ついでに装置を作るのも断念しました涙)、この尺の芝居を作り上げたことに最大限の賛辞を送ります。 その上で感じたことをいくつか。 まず冒頭の大宅さんですが、非常に役柄にぴったりでしたね。演技もそうですが、キャスティングした部員の皆さんのセンスがいいと思いました。ただ、リズムが他の人たちとけっこう同じだったのがもったいないと思いました。台詞回しや声の高さだけでなくセリフのリズムでもっともっと他のキャストを乱してやった方が効果的だと思います。それから、これは全員に言えることですが、もっと体全体を使って欲しいと思います。体をクネクネさせるなら上半身だけではなく下半身も使って全身で表現してほしい。薙刀部も、上半身の動きはよく練習されていて止めるところもピタッと止まっていて見事だったのですが、下半身の形が武道じゃないんですね、重心の位置とか。いい動きだっただけにもったいないと感じました。 また、この芝居は会話がなくひたすら掃除をする時間、その手持ち無沙汰な、何とも言えない停滞感が滲み出るような時間、空間が重要な意味を持つ芝居だと思います。それを我慢し切れていないなと思いました。例えば、しばらく雑巾を洗っていて、ふとバケツをかぶる。このシーンを、他の役者がはけてすぐにバケツをかぶると、いかにも前からバケツをかぶることに興味津々だった、という解釈に見えてしまわないでしょうか?この芝居にはこういったシーンが数多く現れます。他のところ全て塗り終わって「島」にみんなが集まってすぐにトイレに行きたくなる、ではないと思います。なんにもすることがない、待っているしかない時間が過ぎるうちに、一人トイレが我慢できなくなるやつがでてくる、この空気感、分かっていただけるでしょうか? 舞台上で無言で過ぎる時間は、僕は役者をやらないのでわかりませんが、役者にとってすごく忍耐のいる時間なのではないかと思います。でも、そこをしっかり耐えてこそこの芝居の持つ空気感が表せるのではないかと思います。 城北
「STORY of story」 とてもよくできた群像劇で、登場人物のそれぞれの葛藤や気持ちがよく描かれていて、また演じる役者もきちんと演じていて好感が持てる芝居でした。脚本、役者共に非常に高いレベルの上演だったと思います。 この芝居での課題は小道具と舞台設定だと感じました。この部屋はいったいどんな部屋なのか、よくわからず混乱する場面がありました。最初下手からみんな登場していたので下手に入り口があるのはわかるのですが、では上手には流台があるのでしょうか?それにしては(先輩と話をするときに後輩に聞かれないように人払い的にお茶を入れに行かせるシーンがありましたが)遠くないでしょうか?どんな大きさの部屋なんでしょうか?部室なんですか?どんな部屋なんでしょうか。さらに先生が上手から登場するといよいよ客は混乱してしまいます。上手はどこにつながっているのでしょうか、実は上手にも入り口があるのでしょうか?こういうことで客を混乱させると芝居に入り込めなくなってしまうので、もう少しアイデアを出し合ってこの部屋のレイアウトを詰める必要があると思いました。 また、小道具がもったいない。魅力的な小道具ばかりで、選んだセンスもいいのに。ギターにしても望遠鏡にしても使います→使いました→以上、みたいな「いかにも」感がしてしまいます。ギターも弾いてしまえばお役御免みたいに片付けられてしまうといかにもご都合な感じがしてしまいます。実は小道具と言うのは難しいのです。必要なものは置かないといけないし、でも花言葉の話題のために花を飾っておく、そして話題が過ぎればもう触れられることもない、とかではちょっとわざとらしい。長い時間使われているに違いないこの部屋に、この40分間に必要なものしか存在しない、では不自然ですからね。リアリティというのは難しいのです。例えば部室に花を飾る必然性みたいなものを設定しておくとわざとらしさが少しは隠せるかもしれません。 見せ転もよかったですね。きびきび動けていて効果的でした。ただ、転換後が数分後なのか日が変わっているのかセリフではなく見た目で客にわかるようにする方が親切だと思いました。 城南
「浮遊Ⅱ」 抜群に面白かったのですが、よくわかりませんでした笑、すみません。 兄貴のイカれっぷり、見事ですね。「イカれた人の演技」はできますが、「どう見てもイカれた人」になるのは難しいのです。顧問の先生の演技指導がいいのか、役者さんが日頃顧問の先生をよく観察しているのか、多分後者でしょう。役者は日頃から人をよく観察することがいかに重要か分かります。演劇部の顧問の先生方は僕以外イカれた人が多い上に、そのイカれ具合も人それぞれで楽しいのでお会いする機会があればよく観察するといいでしょう。男たちや人質の女子高生たちもいい演技だったのですが、ちょっとその役者の素の人の良さが出ていたような気がします(兄貴のキレっぷりがあまりに良かったせいか)。もっとなすりつけ合うゲスっぷりが増すと痛快さが増すと思います。演劇部の顧問の先生方は僕以外(ry また、意図的に混乱させるつもりなのはわかるのですが、最後に射殺されたクリスくんの声が音響室から流れますが、「浮遊」シリーズを今回しか見ない客もいると思うので、そういう人は最後の最後で混乱させられる、これはせっかくの抜群に面白かった芝居の余韻に水を刺したかもしれません。やるなら、クリスくんが音響室から顔を出す、といった演出をすると客も意図をはっきり認識できて混乱しないと思いますし、作る側も明確なメッセージを客に届けられるのではないかと思いました。ただ、今回は無理ですよね。なぜならみなさんご存知のように、調光室に入れるのは音響と照明係の二人だけだからです。レギュレーションを守ればクリスくん役の役者は部屋に入れない。だからそこは別のアイデアを出して工夫してほしかったと思いました。 ちなみに録画を見れば「はるな愛」のところで僕の笑い声が聞こえると思いますが、実際にツボったのは「飯島愛」でした。笑いの反応の瞬発力が落ちてしまったようです。まったく歳はとりたくないものです。でもこれは若い子にはわからんでしょう、田上先生笑。「知恵島愛じゃなくて鴨島愛」とか、ツボりまくりました。なにが面白いのかわからない人は「JR四国 時刻表 徳島線」でググってみましょう。 年が過ぎれば生徒が入れ替わるという学校の部活という性質上、シリーズ物というのはなかなか高校演劇ではないと思いますが(と言いつつ僕も「昭和二十年シリーズ」を延々と書いてますが)、部長さんのお話によると、このシリーズ、まだまだ続く様子。楽しみがひとつできました。他県で演らずに徳島で上演してください。
最終日は「劇評」ということで
徳島県立城南高等学校演劇部顧問 田上 二郎
アントン・チェーホフ曰く、劇作家は裁判官ではなく証人でなければならない。チェーホフによると、イプセンは劇作家ではなく、今や日本語ではなかなか読めなくなっているゲルトルト・ハウプトマンこそが本当の劇作家なのだそうだ。彼に比べれば自分はただの医者に過ぎないとさえ言っている。戦前に翻訳されたハウプトマンのリアリズム劇「御者ヘンシェル」や「寂しき人々」「日の出前」などを、私は学生時代に読んだことがある。確かに見事な作品であり、イプセンよりも上位に置かれることに私は納得する。19世紀末ドイツの様々な階層の人々の、生々しい息遣いが伝わって来るのだ。だが彼の優れた作品群がドイツ以外の国々では上演されなくなっていることにもある程度納得できる。ハウプトマンの作品は、おそらくロシア人の医者が描いた戯曲ほどには、時代を超えて読者・観客を惹きつけるだけの魅力に乏しいのかも知れない。能弁な証言者が必ずしも重要な証言者になれるとは限らない。逆に訥々と語る言葉の中に、見落としてはならない真実が隠されているかも知れないのである。その真実、時には時代を超えた真実と向き合える可能性がある、それが演劇的体験なのだろう。
第4日⑨富岡西「ヒーロー研究部の大冒険~隠された㊙編~」
昨年9月のアエルワ演劇祭で、非常に高いレベルの生徒創作劇を上演した富岡西だが、今日は全員1年生からなる7人芝居。脚本も1年生によるもの。いったい何を表現したいのか、どう表現するのか。お願いだから安物の大人が作る安物文化には影響されるなよ。そう期待しながら観た。まず「ヒーロー研究部」。何を隠そう私が小学1年の時、「ウルトラマン」は始まった。小学4年の時には「仮面ライダー」が始まった。ヒーローらしいヒーローが活躍した時代に育ったものだから、ウルトラマンのように時間に追われながら今も頑張って劇評を書いている。(今夜これを書き終えて、明日こそは期末試験の問題を作らねば)今の高校生はヒーローをどう研究するのだろう。そう期待した。だが彼女らは「研究」しなかった。「実践」しようとした。「㊙文書」を材料に部活動に脅しをかける嫌な教師と闘おうとした。それも楽しく闘おうとした。昨日、富岡東の生徒たちが、母校の統廃合と闘う自らの姿を対象化・客観化しながら表現した。それに対して今日の富岡西は、自分たちにとって面白い闘いとはどんなものなのか、没入しながら表現した。今の高校生に赤旗も日の丸も関係ないというのが、この富岡西の舞台を観ると完璧に理解できる。同じ問題についてまったく逆の角度から「証言」を得られるというのは、まさにこうしたフェスティバル方式ならではの演劇的体験であった。ついでに言うと、リアルな敵の所在を静かに浮かび上がらせた阿波の芝居を観れば、三部作が完結するというところか。また「㊙文書」を奪取するための侵入経路について話し合ったり、突然それぞれが心の声で独白したり、アイデアはなかなか面白いし、悪の組織「ナルト」ではなく、等身大で闘える敵、大野先生の設定も、この芝居では生きていた。ただ、芝居の結末として、彼の国外左遷がアナウンスされてしまうのは物足りない。ヒーローたちは挫折と敗北を乗り越えて成長し、そして敵を倒す過程で敵を知り、そこからカタルシスが生まれてくるものだよ。ヒーローをもっと研究しよう。知っているかな。隣の学校の副顧問、善本洋之先生は、ヒーロー研究の第一人者なんだよ。
第4日⑩鳴門「全校ワックス」
本日2校目は、うって変わってかなり有名な既成脚本。既成脚本には、さまざまな料理の仕方がある作品と、テキストの正確な読み取りが必須で、ある程度形象化の方向性が決まって来る作品に分けられるのではないか。この脚本は後者であると思う。あいうえお順に集められた生徒の一人、大宅は転校生で素性がよくわからない上に少々嫌われている。彼女が自らを語るクライマックスのあたりや、それに対する直接の反応、その後のこの集団の変化が、台詞としてよく書けているので、うまく心理的な流れを理解して演じなければならないが、そこにばかり目が行くと失敗する。言葉だけではなく、この生徒たちがバケツを頭からかぶったり、ワックスの塗られた床に足を踏み出したりすることの意味についてきちんと共通理解を図り、形象化するのでなければこの脚本の魅力を十分に引き出したとは言えない。その意味でも今日の舞台は、四国大会の審査でたいへんお世話になった中村勉先生のご恩に報いられるだけの出来であったと私は思う。昨年9月に曽我部マコト作「ふ号作戦」を好演した部員たちが残っていて、自然体で一つ一つの状況に無理なく反応し、変化し、好感の持てる演じ方をしていた。学校という場所は、ともすれば閉塞感がつきまとう。それを突き破って何かが流れ出すときに、普段は見えなかったものが見え、互いに共通する何かに感じ合い、響き合える。ある程度の時間を超え、場所を超えて、共感できるからこそ成立した鳴門高校の舞台であり、その共感は観客との間にも生まれたものと思われる。
第4日⑪城北「STORY of story」
「ハッピーエンドは選ばれた特定の誰かにしか来ない。」失恋した女生徒のこの台詞を、私は客席に居て急いで書き取った。いい台詞、いい言葉が書けることは素晴らしいことだ。言葉でカタを付けるのは演劇的でない。たしかにそうだ。この芝居でも男子生徒同士の対立に女生徒が割って入って言葉で和解を促すシーンがある。あれは確かにもっと演劇的な表現の工夫を要する。また全体的にこの芝居において肝心な人間関係がいささか見えにくくなっているのは、おそらく言葉に頼り過ぎていることが原因かと思われる。だが依然として言葉は時に力となる。「敵を愛せ」と言った2000年前の神ではない人間の言葉が、いまだに記憶されているのは、その言葉に神話となるにふさわしい真実がこめられていたからだ。演劇史の半分は劇詩的演劇が占める。台詞は詩であり言葉のアートであったのだ。そして台詞は詩の朗読とは違い、しかるべく組み立てられた劇世界で、しかるべく生を得た役の人物が、しかるべく結びついた筋立てのここぞと言う時に発せられる生きた詩なのだ。ただその詩は発せられた次の瞬間には消滅するので、その震えるような愛おしい瞬間を惜しみつつ忘れないように、私はこの「劇評」を書いている。この本を書いた君、君には才能があるよ。だが高校生である君は、「ハッピーエンドは選ばれた特定の誰かにしか来ない。」と言うけれど、その特定の誰かになるために頑張りながら大人になり、少しばかり歳を取った人たちはこう言うだろう。「ハッピーエンドは実は誰にも来ないのだよ。ハッピーエンドはドラマの中だけにあるのだよ。」すでにそれに気づきかけているからこの芝居を作ったのかも知れないけれど、ハッピーエンドが自分にもあるのではないかと期待しながら生きる時間はとても貴重なのだ。「神山さん、恋ってどんなものですか。」言葉は単純で美しく、劇の焦点を照らし、その言葉がクマのぬいぐるみに発せられるのは演劇的だ。アタマと最後にこの台詞を持ってくるセンス。真ん中もいいところはたくさんある。あとは経験だ。もっともっと書こう。まだまだ能弁とはいかないが、君の「証言」は時代を超えるかも知れない。
第4日⑫城南「浮遊Ⅱ」
人類史の中には杜撰な犯罪とか犯罪者の不可解な行動といった類のものが山ほど記録されている。私が高校生だった頃、妊婦を殺した犯人がその腹から胎児を取り出し、代わりに電話機(当時のものだからコードの付いた黒い固定式電話)を入れたという事件があった。何故そんなことをしたのかはわからない。まあ、やりたかったからやったのだろう。ここは日本だが、私はもし銃を所有できたなら、きっと自分は撃ちたくてしかたなくなるだろうと思うし、撃つとしたら何かを狙って撃ちたくなるだろうと思う。たぶん人を撃つのは、一般的には無理だが、仮に「時空間跳躍ワルキューレ作戦」が発動されて、自分はまったく安全な状態で、数千万人の人命を救うという理由があれば、ヒトラーやスターリンを撃ち殺すことができると確信する。と言うことは、たいていの人間は戦争がなくても殺人者になる可能性はあるということだ。劇の設定では身代金目的の誘拐となっているが、学校や街中での銃乱射無差別殺人事件とおそらく地続きなのだろう。かつて「不条理劇」には、現実世界のものとは違うところで条理が存在したが、この劇にはそのような条理はない。ターゲットである知恵島愛だけは殺さないというのも、主犯Aの瞬間的な思い付きでしかない。彼は誰がターゲットであるかつきとめようとしているのに、その逆の結果しか生まない行動に終始し、クライマックスシーンでは、知恵島愛を弟分に殺させようとする。知恵島愛は自分が知恵島愛だと名乗れば、友達が殺されるみたいなので名乗れない。友達4人は自分が知恵島愛でなければ殺されるみたいなので、4人とも知恵島愛であると嘘をつく。こちら側の心理は、自分らの生死がかかっているので条理にかなったものとなる。ただ自分が殺されそうになっても正体を明かさないところを見ると、おそらく愛は善意で生きている人なのだろう。(あっ、だから「愛」なのか。作者も今やっと気づいた。)2場の最後で激高した弟分Bに拳銃を突きつけられた時、知恵島愛は弟分Bを見つめて「殺すの?」とつぶやく。その眼を見て弟分Bは愛を殺せなくなり、クライマックスでは愛を殺せと命じた主犯Aに銃口を向け、相手を射殺した上、自らも瀕死の重傷を負う。どうしてそんなことをしたのか。たぶん愛の瞳がきれいだったからだろう。現実にはたぶんそんなことは起きない。しかしそんなことが起こったら面白いと思ってどこかで期待している我々生身の人間たちがいる。それはリアルだ。このシリーズは舞台に似合う銃器の音とフォルムがまず必要。そして生か死かの瀬戸際で、人間存在の曖昧な部分がにじみ出る。本当のハッピーエンドもバッドエンドもないままに、生死の境から生身の高校生が抜け出してくる。何故「浮遊」か。それは現実の中で生きている我々自身が、漂い揺れている曖昧な存在だからだ。
講評です
徳島県立城南高等学校演劇部顧問 田上 二郎
第3日⑥阿波「三角チョコパイ~春の桜餅味編~」
演劇部の打ち上げの下見に、阿波高校演劇部員2人がバスで藍住のスターバックスへ行こうとするが、聖火リレーに行く手を阻まれ、たまたま通りかかった闇バイト中のクラスメートが、怒りのあまり道を塞いでいる国家権力に空のペットボトルを投げつけたことから、その場で逃げ帰る。闇バイトが聖火リレーでパーになったクラスメートに、生活がかかっているのだと聞かされ、残った商品である三角チョコパイを買い取ってベンチで2人それを食う。「日常」が「日常」らしい具体性を持って描かれ、その「日常」が一瞬にして、2021年の今の社会状況を描き出す表現へとスケールアップする。その飛躍から、引き取り手の消えた菓子を「食らう」という2人きりの夜の場面に落とし込む。冒頭、鴨島より夢タウンがいいと出かけた、昭和生まれのオジサンたちにとってはエイリアンにも等しい存在だった2人の口中で、三角チョコパイは別の意味を持って咀嚼される。怒りたい時は怒っていい。甘いだけではないこの現実。生活苦、閉塞感、希望のない未来。もっと怒っていいと昭和のオジサンは心から思う。それから、女子校生にとって何となく気になる存在だった彼の抱えている問題が見えて来たりするのだが、お互いもっと本当のところで見つめ合い、相手を知ろうと努力すれば、そこから現実を変えて行く力になるのではないか。などと結末まで高校生目線で展開し、構成された、よくできた芝居だった。徹底的にローカルなネタや映像をちりばめていながら、方言で演じなかったことも私は熱烈に支持する。本当っぽく演らないでもどうせ芝居なんて嘘なんだし。堂々と嘘をついてもその中に一片の真実が込められていれば十分なのだ。
第3日⑦板野「福如雲(福、雲のごとし)」
「令和」が始まろうとする頃に、肝臓を病んだ女子高生のもとを訪れる友人や家族。周囲の気づかいに対してむしろ反発してしまう彼女の繊細な心の襞を描こうとしているようだ。例えば彼女の病気について、映画にもなった「君の膵臓を食べたい」に触れるなど、情報の出し方が一つ一つていねいである上、特に回収されない話題として、アラフォーの図書館司書やハリーポッターの杖など、具体的なイメージがちりばめられている。ほとんどが病室で演じられる分、様々な話題や情報、特に人物設定にかかわる情報は劇世界を豊かにしてくれる。それでいいと思うが、私の感覚では少々情報過多であるような気もした。かつていじめに遭った孤独な友人に友達ができたと聞いて、病気の女子校生はそれを喜ぶどころか冷たく当たってしまう。その時点でちゃんと成立している表現に対して、数年後「あの時は嫉妬して……」とわざわざまた言葉で説明してしまう。もったいない。繊細なものを描くにあたってもう少し繊細であってほしい。音の使い方などもあわせて。
第3日⑧富岡東「らんらんらん」
これは「乱乱乱」なのだろうか。赤鉢巻きをほどくと日の丸になり、赤旗と日の丸の両方を持って「反対運動」を闘う。我々の世代からすればこの斬新極まりないイメージは、今の高校生にはどう感じられるのだろうか。「ランランラン」だから難しいことはどうでもいいのかも知れない。私が高校生の頃すでに、岡林信康の歌を歌うのは城南では私一人だった。ボブ・ディランは更に古い。「友よ」を彼女らが何故知っていて何故歌うのか。いや知らずに歌っているのだろう。登場する「田村先生」については、意図的に学生服に近い服と生徒のままの髪型が用いられていたように思う。登場しない「大和先生」(知る人ぞ知る「大和魂」先生がモデルかな?)は、統廃合に反対していることを生徒たちが知っている様子だが、そこまでの状況は現実の学校を考えると想像しにくい。だがこの劇はけっして荒唐無稽ではなく、むしろ絶妙のずらし方がどうやら意図的になされている。阿波高の芝居に方言が用いられなかったことを私は良しとしたが、富岡東は逆にずらしていながら方言が用いられていることがかえって面白かった。なお、入部してやっと3カ月目の新入部員が多数出演していたが、装置のまったく無い立ち芝居を、ほとんど動かずに会話中心で押し通したところが非常に新鮮で、その身体性から立ち上がる言葉と劇世界は、アートとして鑑賞すべき種類のものではないかと私は感じた。作者の元木理恵を私は彼女が高校生の時から知っているが、ひょっとしたら一番好きな作品かも知れない。ひらめいたらそれを信じて押し通すお母さん。傲慢でもわがままでもいい。次が観たい。