徳島県高等学校演劇協議会
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各顧問からの講評文です。今後の活動の参考にしてください。
第20回文化の森フェスティバル講評
大窪俊之
(第3日)2022.6.18
①池田高校
立ち上がりのぎごちなさがあらぬ緊張を生んでしまうのは勿体ない。がんばりどころ。ある種の表現に対する渇望のようなモノは感じられるので、ときにせっぱ詰まった表現が生まれてイイ感じになる。難しいことかも知れないが、色んなことを疑う必要があると思う。「下ネタが」といいながら一切出ない下ネタ、日常語の感覚とセリフの感覚の相違、標準語でセリフを言うこと、流行語のブレンド度合い、社会問題をメディアが語るときファッション化する問題、男女平等を語るときジェンダーの一方を強調することになる道理等々。日常にある色んな出来事や考えを盛り込もうとして器が大きくなり、全部片づけようとするから安易になる。おそらくもっと日常に根ざした表現の中に、演劇としての落としどころはあるように思う。
②富岡東高校
入りがイイ。この時期としては難しいのかも知れないけれど、照明はデリケートさが必要。工夫も。コロナ続きでホール公演に馴れていないこと、でもそんな機会がそうそうあるわけではない。やはりコロナの3年で相手の表情や意図への反応性が弱くなっている。どこの学校も総じて受け(リアクション)が弱い。前に向く芝居。したがってセリフだけで展開してゆく説明的な芝居になる。そういう芝居もアリなんだが、問題はそれをどう自覚しているかということ。役者は思い込まないで、台詞廻しにもっと他の可能性があることを見て欲しい。「みんな特別、みんなちがう」というのは真に内的な希求か、手垢のついたスローガンか、その言明ははたして個を受け入れていくことにつながるのか。平面的なつくりを意匠するとき、丸ごとの回収が予期される。役者の位置取り、脚本、演出、とみんながうなずき合ってオチを付けざるを得ない。どの要素でもいいので別の仕掛けがほしい。
③板野高校
S.F.の桜はどうか。説明としての独り言。趣味的世界観として造形が意識的になされている。普通に出てくるキツネ面の尻尾を、「こんなん偽物だろ?」「いや本物だし」と交わしておいて、現実には当然偽物という、この作の位置づけをよく表している。とにかくここでも言葉が話の駆動因になっている。言葉なしでどのくらい持つだろう、どのくらい話が展開するだろう。まったく動き出さないのではないか。若干の身体動作があればいいという話ではない。身体に対する信念がない。というかもてあましている。 そのことの自覚へ向かう方が面白いしためになると思う。夢とか将来とか、社会に出ることへの怖さが下敷きにあるのだが、その「夢」と、神社という特異な空間で語られる夢とが不調和を起こす。「労多くして功少なし」であるという医師への道の挫折が、では神社ではたらく、行方不明、というつながりは「オルレアンのうわさ」的心理がもたらす都合を感じる。語るべき相手(二人称)が一人であるという淋しさは現代的。観客は消費者になってしまう。
④脇町高校
現実が虚構化する社会だから、逆に虚構が現実になるしかないという話。脚本がいい。演出や意匠の的確さがあったとしても、脚本という基盤がなければ」成り立たなかった。捨象したことで薄っぺらな価値観から抜け出し、厚みがでた。大事なことを言ってしまうと大してダイジじゃなくなる。些細な日常と異質な意匠。ウソがホントでホントがウソで。人形が人間になり、人間が人形なる。そのような風刺、というよりはアンビバレンツが、われわれを支配して、というのはそこに生ぬるく居場所を求めてしまうことで、よもや何の抵抗も変革も期待できそうにない社会を招来している。そういうことを構造として成立させる力が脚本にあったとしてら秀逸。社交的で元気そうに見えてもどこか不安材料を抱える生徒。よくケガをする僕。大人しく平静なわたしたち。しかしどこかネジが外れている。「ふつう」に居られることが。狂気や異常に対する日常観のなさゆえに、肝心な場面での相手への受けが一様に弱い。狂気を自身から遠く離れた場所に置いてしまっている。狂気と健常の二つに精神を分けてしまっている。二つを峻別するのが近代だということだけれど。
(第4日)2022.6.19
⑤富岡西高校
どこか先の方へ向かって楽しんでやっていることとか、いさぎよく短く切ったのは好感。役者的には余計な動きが多い。いろんな身体動作が簡略化されたせいで、現代人はわが身体をもてあます。ただ立っているとか、ただ話すことが出来ない。耐えきれなくなって余計なことをしてしまう。考えてしまっている。意志というか思いに突き動かされ、身体が勝手にそちらへ行くこと必要なんだろう。見せ方の工夫。観客が向ける視線ももてあましてしまう。うろうろと視点が動き、客は見たくないモノを見てしまうので気が散る。観客をつなぎ止めるためには、演技だけでなく、音響や照明や道具の総体として演劇をつくる演出が必要。
⑥小松島高校
役者の巧拙がはっきり出てしまう難しい本。一定以上の演技力を前提にして書かれている。その点で食い下がってはいるが、まだまだだということはわかっているはず。テレホンな台詞廻しが勝ちだし、役者の身体の弱さが目立ちはじめると、客はこれ以上の期待感が持てなくなって反応を止めてしまう。馴染みのある感情表現には耐えうるが、経験の乏しい感情表現はボロが出る。小さな演技のもつ強度。雑踏の名かで繊細な音がかえって際立つような、余計な雑音を捨象した音は小さくても強く響く。早口で言うのに早さを感じさせない台詞廻しの軽妙。脚本はそのような演技を必然としている。ただ、好感を持ったのは、芝居をつくる彼らなりの誠実さがある点である。それは真心というべきだろうか。このまま重ねて行けばよい。青い照明が生の弱さを語るのに、役者はさっきから同じ感情を出している。そういう不調和。演出と演技がまだ共振していない。脚本の問題であるが、演技のおさめどころが難しい。リアルとリアリティの混在しがややこしいし、無理もある。
⑦城ノ内中等教育学校
パネルはどうかな。漫画やアニメ、二次元ワードで塗り固められた日常はジャーゴン化していて取っつけない人も多いがお構いなし。ところが意外とみなさんワカッテしまっているので、ワタシにはそちらのほうが脅威。「ソレの何がいけないの」と開き直っていて、いさぎがいいようにみえる。ナチュラルと作為の間で揺らいでいる。一見思い切りがいいようにみえても実はフラジャイル。セリフは生きている。身の丈でどうにかしてしまおうとする感じもいい。けれども「趣味的」であることが個性的であることではない。既成のエモーションや意匠の再構成なのである。だからどうしても様式化してしまう。わざとボー読みにしていることとか、ヨシモト的シチュエーション小芝居とか。でも今の時代、こんな子たちがいるんだろうか。いや、かつてもこんな子はどこにもいなかったのではないか。いないことを前提にみんなで楽しんでいるのは、現実逃避かあえて回避する何かなのか。難しいコトいわないで、エンターテイメントはただ楽しめばいい。そう言われそうだ。現代の虚構はむつかしい。場転の処理をもっと丁寧に。音響、照明を気楽に考えすぎ。もっと役者以外のモノにも期待してみるべき。
第20回文化の森フェスティバル講評
大窪俊之
(第3日)2022.6.18
①池田高校
立ち上がりのぎごちなさがあらぬ緊張を生んでしまうのは勿体ない。がんばりどころ。ある種の表現に対する渇望のようなモノは感じられるので、ときにせっぱ詰まった表現が生まれてイイ感じになる。難しいことかも知れないが、色んなことを疑う必要があると思う。「下ネタが」といいながら一切出ない下ネタ、日常語の感覚とセリフの感覚の相違、標準語でセリフを言うこと、流行語のブレンド度合い、社会問題をメディアが語るときファッション化する問題、男女平等を語るときジェンダーの一方を強調することになる道理等々。日常にある色んな出来事や考えを盛り込もうとして器が大きくなり、全部片づけようとするから安易になる。おそらくもっと日常に根ざした表現の中に、演劇としての落としどころはあるように思う。
②富岡東高校
入りがイイ。この時期としては難しいのかも知れないけれど、照明はデリケートさが必要。工夫も。コロナ続きでホール公演に馴れていないこと、でもそんな機会がそうそうあるわけではない。やはりコロナの3年で相手の表情や意図への反応性が弱くなっている。どこの学校も総じて受け(リアクション)が弱い。前に向く芝居。したがってセリフだけで展開してゆく説明的な芝居になる。そういう芝居もアリなんだが、問題はそれをどう自覚しているかということ。役者は思い込まないで、台詞廻しにもっと他の可能性があることを見て欲しい。「みんな特別、みんなちがう」というのは真に内的な希求か、手垢のついたスローガンか、その言明ははたして個を受け入れていくことにつながるのか。平面的なつくりを意匠するとき、丸ごとの回収が予期される。役者の位置取り、脚本、演出、とみんながうなずき合ってオチを付けざるを得ない。どの要素でもいいので別の仕掛けがほしい。
③板野高校
S.F.の桜はどうか。説明としての独り言。趣味的世界観として造形が意識的になされている。普通に出てくるキツネ面の尻尾を、「こんなん偽物だろ?」「いや本物だし」と交わしておいて、現実には当然偽物という、この作の位置づけをよく表している。とにかくここでも言葉が話の駆動因になっている。言葉なしでどのくらい持つだろう、どのくらい話が展開するだろう。まったく動き出さないのではないか。若干の身体動作があればいいという話ではない。身体に対する信念がない。というかもてあましている。 そのことの自覚へ向かう方が面白いしためになると思う。夢とか将来とか、社会に出ることへの怖さが下敷きにあるのだが、その「夢」と、神社という特異な空間で語られる夢とが不調和を起こす。「労多くして功少なし」であるという医師への道の挫折が、では神社ではたらく、行方不明、というつながりは「オルレアンのうわさ」的心理がもたらす都合を感じる。語るべき相手(二人称)が一人であるという淋しさは現代的。観客は消費者になってしまう。
④脇町高校
現実が虚構化する社会だから、逆に虚構が現実になるしかないという話。脚本がいい。演出や意匠の的確さがあったとしても、脚本という基盤がなければ」成り立たなかった。捨象したことで薄っぺらな価値観から抜け出し、厚みがでた。大事なことを言ってしまうと大してダイジじゃなくなる。些細な日常と異質な意匠。ウソがホントでホントがウソで。人形が人間になり、人間が人形なる。そのような風刺、というよりはアンビバレンツが、われわれを支配して、というのはそこに生ぬるく居場所を求めてしまうことで、よもや何の抵抗も変革も期待できそうにない社会を招来している。そういうことを構造として成立させる力が脚本にあったとしてら秀逸。社交的で元気そうに見えてもどこか不安材料を抱える生徒。よくケガをする僕。大人しく平静なわたしたち。しかしどこかネジが外れている。「ふつう」に居られることが。狂気や異常に対する日常観のなさゆえに、肝心な場面での相手への受けが一様に弱い。狂気を自身から遠く離れた場所に置いてしまっている。狂気と健常の二つに精神を分けてしまっている。二つを峻別するのが近代だということだけれど。
(第4日)2022.6.19
⑤富岡西高校
どこか先の方へ向かって楽しんでやっていることとか、いさぎよく短く切ったのは好感。役者的には余計な動きが多い。いろんな身体動作が簡略化されたせいで、現代人はわが身体をもてあます。ただ立っているとか、ただ話すことが出来ない。耐えきれなくなって余計なことをしてしまう。考えてしまっている。意志というか思いに突き動かされ、身体が勝手にそちらへ行くこと必要なんだろう。見せ方の工夫。観客が向ける視線ももてあましてしまう。うろうろと視点が動き、客は見たくないモノを見てしまうので気が散る。観客をつなぎ止めるためには、演技だけでなく、音響や照明や道具の総体として演劇をつくる演出が必要。
⑥小松島高校
役者の巧拙がはっきり出てしまう難しい本。一定以上の演技力を前提にして書かれている。その点で食い下がってはいるが、まだまだだということはわかっているはず。テレホンな台詞廻しが勝ちだし、役者の身体の弱さが目立ちはじめると、客はこれ以上の期待感が持てなくなって反応を止めてしまう。馴染みのある感情表現には耐えうるが、経験の乏しい感情表現はボロが出る。小さな演技のもつ強度。雑踏の名かで繊細な音がかえって際立つような、余計な雑音を捨象した音は小さくても強く響く。早口で言うのに早さを感じさせない台詞廻しの軽妙。脚本はそのような演技を必然としている。ただ、好感を持ったのは、芝居をつくる彼らなりの誠実さがある点である。それは真心というべきだろうか。このまま重ねて行けばよい。青い照明が生の弱さを語るのに、役者はさっきから同じ感情を出している。そういう不調和。演出と演技がまだ共振していない。脚本の問題であるが、演技のおさめどころが難しい。リアルとリアリティの混在しがややこしいし、無理もある。
⑦城ノ内中等教育学校
パネルはどうかな。漫画やアニメ、二次元ワードで塗り固められた日常はジャーゴン化していて取っつけない人も多いがお構いなし。ところが意外とみなさんワカッテしまっているので、ワタシにはそちらのほうが脅威。「ソレの何がいけないの」と開き直っていて、いさぎがいいようにみえる。ナチュラルと作為の間で揺らいでいる。一見思い切りがいいようにみえても実はフラジャイル。セリフは生きている。身の丈でどうにかしてしまおうとする感じもいい。けれども「趣味的」であることが個性的であることではない。既成のエモーションや意匠の再構成なのである。だからどうしても様式化してしまう。わざとボー読みにしていることとか、ヨシモト的シチュエーション小芝居とか。でも今の時代、こんな子たちがいるんだろうか。いや、かつてもこんな子はどこにもいなかったのではないか。いないことを前提にみんなで楽しんでいるのは、現実逃避かあえて回避する何かなのか。難しいコトいわないで、エンターテイメントはただ楽しめばいい。そう言われそうだ。現代の虚構はむつかしい。場転の処理をもっと丁寧に。音響、照明を気楽に考えすぎ。もっと役者以外のモノにも期待してみるべき。