徳島県高等学校演劇協議会
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文化の森フェス・第2週が始まりました。
感染症対策で、制限のある中での発表となりますので、
ご覧になった方は、こちらにご感想を投稿していただけると、
今後の励みになります。
よろしくお願いいたします。
2021.6.26文化の森フェスティバル 第2週 講評
大窪俊之
それは新型コロナ反動の集積によって伺えるなにかだ。人は自身の生活経験の近くにあるものを自然と肯定し、また求めるようにできている。観客と役者の距離は経験的に疑われはしないが、「近さ」の感覚はもはや別のなにかに変わって、一々把捉する煩わしさを避けている。コロナのせいというのではない。ただコロナ状況が、とっくに取り沙汰されていたはずの、遠近感の混乱を顕在化させたというにすぎない。したがって、われわれの不機嫌はコロナウイルスが原因ではない。巨視的なスケールの世界像が一個人の身丈に合わなくなった現代は、他者とは何かという問題を突きつけられる息苦しさに対する、人類史上もっとも神経質な時代。それが人々の行為に顕れているからである。「コロナ」という語が吐かれたら、もう「仕方がない」と諦め、居直り、言い訳に着地してしまう状況。この現代の問題をよりよき意味で演劇の俎上に載せるためには、収まりのいい(目をつけられない)ところで安住していてはダメなのだ。勇気を奮い起こして、現代を対象化するしかない。
阿波高校は創作意図がよく出た作品。土着性を素材にしたいつもの切り口。貧困も日常性も、個人の事情も全て関係なく、交々に巻き込んでゆく国家権力の表徴としてのオリンピック。大きな正義(らしきモノ)のために、ちっぽけな個々の存在が踏みにじられてゆく光景。踏みにじられているという印象は、登場人物たちにはあまりない。地元のコンビニではダメでゆめタウンのスタバならいいという論理は、有名になってお金持ちになって拡散オネガイという価値観に通じている。都合や説明的なセリフは至極多い。観客がいるからうったえる意味もあるわけだが、あんまり観客を信用はしていない(いやできない)。わかりやすくわかりやすく、これでもかとわかりやすく作る演出がイイかどうかは別にして、そうするからこそ作者の強いパッションは際立つ。必然的に、役者がそれに応える、という働きになる。上演の出来は熱量の問題になってゆく。熱量が高ければいいのではない。出すところで出し、引くところは引く。神社や祠の描き方が一周してきて脳裏をかすめる。地縁的なものへの愛着が根源にあって、自虐的なネタでもちゃんとあたたかい笑いになっている。
板野高校は普段の活動を想像させる生徒創作。未来を信じる「若さ」に依った瑞々しさ。落とし込みたい結論があるので、そのことに自覚的かどうかが演劇の成立する位置を決める。言葉によって展開する脚本は特別な演出の質感を要求する。現状の演出を当たり前だと考えないこと。潮目が変わるところにかぎって映像的(テレビドラマ的)な処理が行われる。対面会話の代替であるリモート会話の表現を実際の会話でやるという倒錯した演出にはうなった。おそらく、そうするしかないという必然が生んだ偶然の効果である。しかし全体的には演出についてもっと苦しんだらもっといいところに落ち着く。脚本が決定的に舞台の方向性を作り、役者はそれを疑わない。脚本と演技の拮抗がなく、相克してしまう。脚本をもっと読むこと。自分の声がどう聞こえているかを疑うこと。疑ったら演技だろと脚本だろうと変えるところは変える。
役者と役の質感の差を演出に生かそうとしたのは富岡東高校。部員の演劇の幅や可能性を広げようとする習作。むかし九州の隼人が狩猟をするとき、鉢巻きの額部分にまじないで獣の血をつけたという日の丸起源説。あらがえないモノが押し寄せる感覚は、まつろわぬ者の存在によって実体化する。決してコロナのためでない、「これはコロナでない感染」とセリフでも言う。帰属こそ存在そのものであるという認識論からは、近隣高校との統合は自己の喪失を意味する点で認めがたい。しかし「平成の大合併」では全国の市町村数が2/3に減った。たとえ行政区画の名前だろうと、記号が帰属性に与える影響は大きい。帰属性が内面化する経験の前に馴染みのないエスニックから離れていってしまう。ショックドクトリンの裏面で権力が描き出そうとする明るい未来。「あかるい全体主義」がみんなをオカシくして、ケナゲにも誰かが「いけるんか、いけるんか」って言う。あっという間に終わってしまったのは残念で、せめてあと10分長ければと思う。
「わかりやすさ」の感覚は、本来多元的で多面的で個別的なものだろう。それが一面化してしまうことは、自身の存在に確信が持てなくなった証である。ある規則性を持っていくつかの価値観が並ぶ平野を横目に、われわれは選択的な生を生かされる。たちまち存在論的な疑いが頭をもたげ、何かにこだわってみせるそぶりに落ちる。しかしそれも、ありきたりな選択行為の域を出ない。認められない自分は許せない気位の高さの末路である。他を過度に意識することなく自身の感受性に素直なドンファン的イノセントをわれわれは失った。ただ現象があるのみという世界認識は物語に回収され、意味と価値を共有することでつかのま安心を得ている。そこでの「わかりやすさ」は安心の材料でしかない。
「コロナ」という命名には、現象との奇妙な一体感がある。ウイルス感染は人類史、脊椎動物史にとって特別な現象ではない。ウイルス共生はヒトにとってもあたりまえな生存戦略である。今日のセンシティブなコロナ対策はいつか別の根源的な問題をヒト社会に突きつけることになるだろうが、そうした恐れを実感しながらも、政治権力は人を抑圧し規定の行為に押し込める。現代に100年前同様の芸術創造があり得るだろうか。あの暗い時代の轍を、このたびもまた踏むことになるかもしれない。あっけなく死んでしまった有名人をスケープゴートに使い、この災禍に限っては金持ちも貧乏人も関係なく(ホントにそうだろうか)暴露するのだという共同幻想が導く都合のいい悪平等主義が、鬱憤晴らしや攻撃性などと歩調をそろえて、全体主義への道を招来している。演劇はそれほそのどかではいられない。
今回がはじめての舞台という生徒が大半で、また部活動の制約もあってか、訳あり、都合、説明の多さが気にかかる。しかし、新しい部員たちの期待感は見ているとやはりほほえましい。やれることをやっている。この機にいろんなことを学んでほしい。
2021.6.26文化の森フェスティバル 第2週 講評
大窪俊之
それは新型コロナ反動の集積によって伺えるなにかだ。人は自身の生活経験の近くにあるものを自然と肯定し、また求めるようにできている。観客と役者の距離は経験的に疑われはしないが、「近さ」の感覚はもはや別のなにかに変わって、一々把捉する煩わしさを避けている。コロナのせいというのではない。ただコロナ状況が、とっくに取り沙汰されていたはずの、遠近感の混乱を顕在化させたというにすぎない。したがって、われわれの不機嫌はコロナウイルスが原因ではない。巨視的なスケールの世界像が一個人の身丈に合わなくなった現代は、他者とは何かという問題を突きつけられる息苦しさに対する、人類史上もっとも神経質な時代。それが人々の行為に顕れているからである。「コロナ」という語が吐かれたら、もう「仕方がない」と諦め、居直り、言い訳に着地してしまう状況。この現代の問題をよりよき意味で演劇の俎上に載せるためには、収まりのいい(目をつけられない)ところで安住していてはダメなのだ。勇気を奮い起こして、現代を対象化するしかない。
阿波高校は創作意図がよく出た作品。土着性を素材にしたいつもの切り口。貧困も日常性も、個人の事情も全て関係なく、交々に巻き込んでゆく国家権力の表徴としてのオリンピック。大きな正義(らしきモノ)のために、ちっぽけな個々の存在が踏みにじられてゆく光景。踏みにじられているという印象は、登場人物たちにはあまりない。地元のコンビニではダメでゆめタウンのスタバならいいという論理は、有名になってお金持ちになって拡散オネガイという価値観に通じている。都合や説明的なセリフは至極多い。観客がいるからうったえる意味もあるわけだが、あんまり観客を信用はしていない(いやできない)。わかりやすくわかりやすく、これでもかとわかりやすく作る演出がイイかどうかは別にして、そうするからこそ作者の強いパッションは際立つ。必然的に、役者がそれに応える、という働きになる。上演の出来は熱量の問題になってゆく。熱量が高ければいいのではない。出すところで出し、引くところは引く。神社や祠の描き方が一周してきて脳裏をかすめる。地縁的なものへの愛着が根源にあって、自虐的なネタでもちゃんとあたたかい笑いになっている。
板野高校は普段の活動を想像させる生徒創作。未来を信じる「若さ」に依った瑞々しさ。落とし込みたい結論があるので、そのことに自覚的かどうかが演劇の成立する位置を決める。言葉によって展開する脚本は特別な演出の質感を要求する。現状の演出を当たり前だと考えないこと。潮目が変わるところにかぎって映像的(テレビドラマ的)な処理が行われる。対面会話の代替であるリモート会話の表現を実際の会話でやるという倒錯した演出にはうなった。おそらく、そうするしかないという必然が生んだ偶然の効果である。しかし全体的には演出についてもっと苦しんだらもっといいところに落ち着く。脚本が決定的に舞台の方向性を作り、役者はそれを疑わない。脚本と演技の拮抗がなく、相克してしまう。脚本をもっと読むこと。自分の声がどう聞こえているかを疑うこと。疑ったら演技だろと脚本だろうと変えるところは変える。
役者と役の質感の差を演出に生かそうとしたのは富岡東高校。部員の演劇の幅や可能性を広げようとする習作。むかし九州の隼人が狩猟をするとき、鉢巻きの額部分にまじないで獣の血をつけたという日の丸起源説。あらがえないモノが押し寄せる感覚は、まつろわぬ者の存在によって実体化する。決してコロナのためでない、「これはコロナでない感染」とセリフでも言う。帰属こそ存在そのものであるという認識論からは、近隣高校との統合は自己の喪失を意味する点で認めがたい。しかし「平成の大合併」では全国の市町村数が2/3に減った。たとえ行政区画の名前だろうと、記号が帰属性に与える影響は大きい。帰属性が内面化する経験の前に馴染みのないエスニックから離れていってしまう。ショックドクトリンの裏面で権力が描き出そうとする明るい未来。「あかるい全体主義」がみんなをオカシくして、ケナゲにも誰かが「いけるんか、いけるんか」って言う。あっという間に終わってしまったのは残念で、せめてあと10分長ければと思う。
「わかりやすさ」の感覚は、本来多元的で多面的で個別的なものだろう。それが一面化してしまうことは、自身の存在に確信が持てなくなった証である。ある規則性を持っていくつかの価値観が並ぶ平野を横目に、われわれは選択的な生を生かされる。たちまち存在論的な疑いが頭をもたげ、何かにこだわってみせるそぶりに落ちる。しかしそれも、ありきたりな選択行為の域を出ない。認められない自分は許せない気位の高さの末路である。他を過度に意識することなく自身の感受性に素直なドンファン的イノセントをわれわれは失った。ただ現象があるのみという世界認識は物語に回収され、意味と価値を共有することでつかのま安心を得ている。そこでの「わかりやすさ」は安心の材料でしかない。
「コロナ」という命名には、現象との奇妙な一体感がある。ウイルス感染は人類史、脊椎動物史にとって特別な現象ではない。ウイルス共生はヒトにとってもあたりまえな生存戦略である。今日のセンシティブなコロナ対策はいつか別の根源的な問題をヒト社会に突きつけることになるだろうが、そうした恐れを実感しながらも、政治権力は人を抑圧し規定の行為に押し込める。現代に100年前同様の芸術創造があり得るだろうか。あの暗い時代の轍を、このたびもまた踏むことになるかもしれない。あっけなく死んでしまった有名人をスケープゴートに使い、この災禍に限っては金持ちも貧乏人も関係なく(ホントにそうだろうか)暴露するのだという共同幻想が導く都合のいい悪平等主義が、鬱憤晴らしや攻撃性などと歩調をそろえて、全体主義への道を招来している。演劇はそれほそのどかではいられない。
今回がはじめての舞台という生徒が大半で、また部活動の制約もあってか、訳あり、都合、説明の多さが気にかかる。しかし、新しい部員たちの期待感は見ているとやはりほほえましい。やれることをやっている。この機にいろんなことを学んでほしい。